119系という電車がありました。
その電車は、昭和58(1983)年から、戦前型の旧型国電が最後の活躍を続けていた飯田線に投入されました。そのため、当時の鉄道愛好家から蛇蝎の如く忌み嫌われていました。
しかし、それから30年目を迎える今年の3月、後進の313系などに道を譲り、全車退役しています。さすがにこのときは313系などを罵倒する愛好家はいなかったようですが、119系は、かつて戦前型の古強者たちがそうだったように、多くの愛好家の惜しむ声に送られて、表舞台を去りました。
119系ですが、車両は未だ廃車になったわけではなく、豊橋や浜松に留置されています。
鉄道趣味界の外に身を置く人にとっては、「???」なことでしょう。30年前に119系を罵倒した愛好家が、今年の3月に119系の退役を惜しむ。もちろん30年もたてば、鉄道趣味界でも世代が変わりますから、両者が完全に同一人物だとは思いませんし、仮にそうだとしても責められるべきことではありません。
では、なぜこのような、「当初罵倒されていた対象が、引退するとなると惜しまれる」という現象が生じるのか。今回はこのことを考えてみようと思います。
なお、タイトルはAKB48の初期のヒット曲です。
なお、タイトルはAKB48の初期のヒット曲です。
恐らくこのことは、鉄道趣味が「『思い入れ』によって成り立っている」ジャンルであることと、無関係ではないように思います。趣味歴が長ければ長いほどそのような「思い入れ」の数や深さは増していくもの。これと似た傾向はプロレスファンにもあって、力道山時代を知る人、馬場・猪木2トップの時代を知る人、全日・新日の全盛期を知っている人に分かれますが、それぞれに見てきた歴史に見合った思い入れがあります。現在の全日本プロレスの総帥・武藤敬司が「思い出には勝てねえよ」と発言するのは、プロレスファンのこのような気質を言い当てているものでしょう。
あるひとつの路線・車両を例にとると、自分が興味を持ったころから活躍をしている車両があって、それが経年に従って数を減らす。そしてその車両を置き換える新型車両の投入について、最初は自分の「お気に入り」が置き換えられることについて寂しさと脅威を覚える。しかし完全に置き換えがなった後は、新型車両との新たな付き合いが始まり、思い入れが増していく。そういう流れなのだと思います。管理人自身も、物心ついたころから当たり前に走っていた8000系が5050系に置き換えられる過程を体験していますが、やはり子供のころからの思い入れがあった車両が減っていくことには寂しさを感じていました(だからって5050系に憎悪はありませんよ)。その後5050系が増えるに従って、5050系やその兄弟車Y500系に対しても、それなりの思い入れを持つようになりました。
そして、このような「対象に対する見方の変遷」のようなものは、おそらくどの愛好家も経験していることだろうと思います。
したがって、「嫌いな車両なら最後まで嫌い続けるべきでは?」とか「最初は嫌いだったくせに」という意見は、鉄道愛好家の特質を理解しない、皮相的な見方に基づく意見でしかありません。
したがって、「嫌いな車両なら最後まで嫌い続けるべきでは?」とか「最初は嫌いだったくせに」という意見は、鉄道愛好家の特質を理解しない、皮相的な見方に基づく意見でしかありません。
したがって、「葬式鉄」と呼ばれる現象、引退間近の車両や廃止間際の列車などに群がる愛好家たちの行動も、十分に理解できるところですから、管理人は異を唱える気はありません。
問題なのは、ネットスラングでいうところの「懐古厨」、過去の古い車両(車両に限りませんが)を是とし現在の新型車両などを非とする考え方をとる人たちがいることです。例えば、中央快速線では昨年201系が完全にE233系に置き換えられ、今年3月には東海道・山陽新幹線から300系が完全退役していますが、「201系の方が良かった。それに比べてE233は…」とか、「300系は最高だった。700系やN700は糞」と言い放つなど。実際にツイッターなどでも見受けられます。
ツイッターの発言などは、ネットユーザーの反応を楽しむ、いわゆる「釣り」である可能性もあるので、ここで詳論することはしませんが(鉄道愛好家に対し何故かくも頻繁に『釣り』が出現するのかという、別の意味での考察対象にはなる)、どうも「本気でそう思っている」人たちが一定数存在するようなのです。
そういう人は、既にそのような考え方自体が「201系真理教」「300系真理教」とでもいうべきものなので、その人たちに自らの「宗教」を捨てろという気は、管理人にはありません。ですが、そういう「教義」自体、余りにも偏狭ではないかという批判ができますよね。確かに「宗教」はそれ自体排他的で教義も偏狭ではありますが(汗
当ブログでは以前に、通勤型車両の技術の変遷を取り上げたことがありました。戦前型の国電から101系に進化し、103系→201系→205系→209系・E231系と進化する過程で、様々な技術革新による性能や居住性の向上が図られています。流石に戦前型の国電を是とする人はいないでしょうが(ひょっとしたらいるかも)、未だに201系を使い続けろという人は、現在のE231系やE233系の方が消費電力量が少ないことや、車体幅が広がったため居住性が改善されていることなどはスルーなんですよね。
地下鉄はもっと顕著ですよ。銀座線なんて30年くらい前まで、リベットゴツゴツの吊り掛け車両が走っていたのですから。もちろん冷房はなし。それでも銀座線はトンネル冷房があったのでまだよかった。日比谷線などはトンネル冷房もろくに効かず、まさに「走るサウナ」。当時の車両は営団3000系・東武2000系・東急7000系。いずれも冷房を搭載していません。「懐古厨」の人は、30年前の銀座線や日比谷線がいいんですかね? ボロい銀座線や、「走るサウナ」の日比谷線が。管理人にはそこまで考えて物を言っているようには思えないのですが…。
管理人が思うに、こういう人は、自分の好きなものや対象に対する思い入れが強すぎて、現実と折り合いをつけることができないのだと思います。
ですが、何事も現実と折り合わなければ始まりませんし、まして鉄道は対象が公共物。そうだとすれば、なおさら現実と、愛好家としての願望は分けなければならない。もちろん愛好家として、願望や妄想を広げるのは楽しいものですし、そのこと自体に異を唱える気はありませんが、やはり両者は厳然と区別すべきだろうと思います。
まとまりのない文章ですが、愛好家の願望や妄想を鉄道会社にぶつけるのは止めた方がいいのでは、ということです。
※ 当記事は08/09付の投稿とします。
管理人が思うに、こういう人は、自分の好きなものや対象に対する思い入れが強すぎて、現実と折り合いをつけることができないのだと思います。
ですが、何事も現実と折り合わなければ始まりませんし、まして鉄道は対象が公共物。そうだとすれば、なおさら現実と、愛好家としての願望は分けなければならない。もちろん愛好家として、願望や妄想を広げるのは楽しいものですし、そのこと自体に異を唱える気はありませんが、やはり両者は厳然と区別すべきだろうと思います。
まとまりのない文章ですが、愛好家の願望や妄想を鉄道会社にぶつけるのは止めた方がいいのでは、ということです。
※ 当記事は08/09付の投稿とします。