さて今回は、「バス折返所の表情」シリーズですが、これまで現役の折返所を取り上げてきたのに対し、今回は廃止されたものを取り上げます。その廃止された折返所とは、野沢折返所。
東京都世田谷区野沢にあった折返所で、東急バス「中目01」や都営バス「宿91」が使用しておりました。その昔は、「中目01」の前身の「渋70」、さらにその前身の「宿97」も使っていました。
ちなみに「宿97」は、現在の野沢龍雲寺(当時は『世田谷野沢』と称した)から中目黒駅・代官山駅入口を経て渋谷駅東口を通り、明治通りを北上して新宿駅東口(西口ではない)に達していました。昭和52(1977)年11月に実施された都営バス路線網の大リストラの際、「宿97」は渋谷駅東口以北をカット、都営が撤退し東急のみの単独運行となり、系統番号も「渋70」となりました。さらに渋谷駅東口-中目黒駅間をカットした「中目01」が出現しましたが、平成5年の野沢折返所の廃止に伴い、下馬一丁目~野沢龍雲寺間が「渋32」と同じ循環運行となりました。平成9(1997)年、この「中目01」は何と目黒駅まで延びて「黒09」と改称され、現在に至ります。
前置きが長くなりました。それでは現地を見てみましょう。
現在は隣接するスーパーの駐車場になっている
ここが跡地です。写真の奥に見える万年塀が、この土地の前身を彷彿とさせます。かつてはここに、東急、都営の車が出入りしていました。
では、当時の「宿97」~「渋70」「中目01」はどのように折り返していたのか。
実はこの系統は、環七を進むのではなく、野沢龍雲寺交差点の方から入ってきます。下の写真の左側から左折して、環七の一番右のレーンに入り、そこから反対車線を横断して折返所に入っていました。
奥の「サミット」と手前の「コルモピア」の間が折返所だった
そして現在は車線間に植え込みが作られていますが、当時はこんなものはなく、このあたりから反対車線(外回り)を跨いで折返所に入りました。
当時はなかった植え込み
そして出発するときは、環七の外回り線へ出て、右折して停留所に向かい、そこでお客を拾っていました。
軽ワゴン車の左側にバス停ポールがある(わかるかな?)
なお、当時は反対車線の側に降車専用の停留所がありました。
それでは「宿91」は何故ここを利用していたのかですが、「宿91」はもともと、新宿駅西口と大森操車所を環七経由で走る長距離路線であったところ、長距離路線にありがちな収益性低下・定時性確保などの理由により、昭和59(1984)年2月16日、新代田-大森間を東急単独の「森91」、新宿側を「宿91」のまま都営単独運行としました。このとき現在のように新代田で単純に分割しなかったのは、世田谷方面と杉並方面相互の需要があり無視できなかったからだそうですが、そのため「宿91」は野沢銀座までとなり、折返しは野沢折返所を活用することとなりました。
「宿91」は平成5(1993)年に野沢折返所が廃止された後は、駒沢通りとの交差点で転回することで折り返すようになり、近くに「駒沢陸橋」なるバス停を新設、そこで折り返すようになりました。しかし、このころになると世田谷方面まで乗るお客は減少し、減便に次ぐ減便となり、結局野沢折返所廃止の20年後、分断から29年後に駒沢陸橋-新代田駅間を廃止、現在みられる路線形態となっています。
「宿91」は野沢銀座でお客を降ろした後、この折返所に右折で入り、出るときは左折して環七外回りを走り、野沢銀座バス停でお客を迎え入れていました。
こちらは環七外回りの野沢銀座バス停ですが、ポールの表・裏を撮影したものです。あえてノーキャプションとします。
1枚目・2枚目とも、紙を貼ったような形跡がありませんか? 実はこれ、7年前に「宿91」を短縮したとき、行先案内・路線図のいずれも書き直さず、紙を貼って隠すことで対応したもの。最上部に「東急・小田急」とありますが(小田急があるのは『下61』北沢タウンホール行きが発着するから)、これも紙を貼った上に書かれています。かつては東急・小田急・都営と書かれていたものですが。
「宿91」の路線短縮によって、世田谷区を走る都営バスの路線は、同じ「宿91」の新代田駅-大原町間のみという、ごく限られたものとなってしまいました。
野沢折返所が廃止されて27年、「宿91」がここを走らなくなってからでも7年。そりゃ管理人も年を取るわけです(^_^;)