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5811.思い出の上越特急劇場 その11 最後の昼行上越特急「鳥海」の旅路

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その10(№5805.)から続く

今回は、「最後の(昼行)上越特急」「最後の特別急行」となった、「いなほ」改め「鳥海」を取り上げます。

前回言及したとおり、「57.11」の時点では、上越新幹線は大宮発着の暫定開業だったため、新幹線の利便性や速達効果は限定的にならざるを得ませんでした。確かに「いなほ」が達していた庄内地区へは、上越新幹線の利用で時間短縮を図ることができましたが、その効果も1時間程度であり、その時間短縮と引換えになるのは、大宮と新潟の2度にわたる乗換えです。
そこで、国鉄当局は、乗換えを嫌う乗客への配慮として、上野から庄内地区への直通の昼行特急列車を1往復だけ存置することにし、この列車が「鳥海」となりました。
この「鳥海」の愛称は、ダイヤ改正まで上野-秋田間を上越線・羽越本線経由で走っていた急行列車が名乗っていたもの。急行の「鳥海」が24系化されて寝台特急「出羽」となり、浮いた「鳥海」の愛称が残った特急に転用されたということです。
急行の愛称をいただいた「鳥海」ですが、運転区間と使用車両は紛れもなく「特別急行」のそれでした。運転区間は上野-青森間で700kmを超える長距離。使用車両も485系、それもグリーン車と食堂車を組み込んだ12連(大阪-青森間の『白鳥』と共通運用とされた)。当時の上野駅発着の特急列車は、「57.11」を境に「はつかり」など東北方面の特急列車はほとんどが廃止され、残った「つばさ」「やまばと」も食堂車のない9連に編成が短縮、「ひたち」も12連とはいえ食堂車がないため、「鳥海」の編成の充実ぶりは際立っていました。
また、「鳥海」には、雪を頂いた鳥海山をデザインした美しいイラストマークが用意され、これが485系の前面によく映えていました。
ちなみに、「57.11」時点で食堂車を連結・営業している上野発着の特急列車は、「鳥海」の他には「白山」3往復のみとなり、いよいよ希少価値が出てきています。
このようにして残った「いなほ」改め「鳥海」ですが、乗換えを嫌う高齢者や鉄道の旅を楽しみたい層などの利用が多く、乗車率はそれほど悪くはなかったようです。当時の鉄道趣味界においても、「最後の特別急行」として「鳥海」の人気は高いものがありました。

しかし。
上越新幹線はあくまで「暫定」開業であり、いずれは東京(上野)に達するもの。したがって、「最後の(昼行)上越特急」として孤塁を守っていた「鳥海」にも、終焉の時期が見えてきます。
上越新幹線は、昭和60(1985)年3月14日をもって上野に達することが決まります。それを機に、国鉄では全国規模のダイヤ改正を敢行(以下このダイヤ改正を『60.3』という)。このころは各地で「短編成化による列車増発」が盛んにおこなわれましたが、特急列車も例外ではなく、「60.3」をもって昼行特急から食堂車がなくなることになりました(北海道の一部の気動車特急は翌年10月まで残存)。この改正は、国鉄時代の重厚長大な「特別急行」を身軽な「特急」へとシフトチェンジするものだったからです。
つまり、新幹線が上野に達し、なおかつ「特別急行」ではなく「特急」を指向するダイヤ改正を行うというのでは、「最後の特別急行」たる「鳥海」の命運は、もはや決まったのも同然といえました。
その改正への準備ということか、前年の昭和59(1984)年11月初頭に「鳥海」の編成から食堂車サシ481が抜かれ、食堂車の営業がなくなりました。その後、年が改まると、今度は車両も583系に置き換えられます。これについて管理人が個人的に見知ったことを述べると、管理人は昭和60年の2月、親族の葬儀で新潟県村上市に赴いたことがあるのですが、そのとき村上駅で見た「鳥海」が583系でした。485系にはあったイラストマークはなく、紙で「鳥海」と書かれていたように記憶しています。その姿からは、もはや「最後の特別急行」としての華も威厳も全く失われており、何ともうら寂しい姿に見えたのが、強烈に印象に残っています。このときの「鳥海」、管理人は乗ろうと思えば乗ることができたのですが、結局これには乗らず、「いなほ」と上越新幹線で帰っています。なお付言すれば、管理人が当時の「鳥海」に乗らなかったのは、その姿を見て落胆したからではなく、両親と同行していたからです。
そして「60.3」で「鳥海」は廃止…となるのですが、あくまで「定期列車としての廃止」で、臨時列車として運転する機会は残されました。

しかし、臨時列車として残った「鳥海」は、定期列車時代の12連の威容と比べれば見る影もない、グリーン車1両を組み込んだ7連とされました。ダイヤも、秋田を早朝に出て上野に午後に到着、そのまま折り返して秋田へ出発し、その秋田には深夜に到着するというものに改められました。こういうと気動車時代の「いなほ」の再来のようですが、下り列車の秋田到着は23時を回っており、鶴岡・酒田も21時台の到着となるなど、東京からはやや利用しにくい時間帯となってしまいました。このあたりは臨時列車の悲哀なのかもしれませんが。
このようなダイヤ、使用車両になってしまっては、もはや定期列車時代の華、威厳、風格、いずれも見る影もありません。臨時列車への格下げをもって、「最後の特別急行」としての「鳥海」は終わったとみるべきなのでしょう。
なお、臨時列車格下げ後の「鳥海」ですが、格下げ直後は秋田が担当していたものの、その後「国鉄最後のダイヤ改正」と称される昭和61(1986)年11月1日実施のダイヤ改正では、車両の担当が勝田に変更されました。
当時の勝田には、ボンネットスタイルの先頭車が多く残っていたことから、「鳥海」移管に際し、勝田では、ボンネットスタイルの先頭車に装着できるイラストマークを作成していました。これは「電気釜」と称される貫通型・非貫通型の車のそれに比べ、格段に目立つ、かつ美しいものでしたが、このマークを装着して「鳥海」が運転されたという話は聞いたことがありません。もしかしたら、どなたかが撮影されているかもしれませんが、ボンネットスタイルの先頭車の編成の「鳥海」、運転実績はあったのでしょうか。
このころになると、東京から庄内地区を目指すお客は新幹線と「いなほ」利用が当たり前になり、在来線で乗り通す人は少なくなりましたから、「鳥海」はほとんど運転されなくなっていたように思います。
結局、JR発足に前後して、「鳥海」はフェードアウトするように消えていきました。「最後の特別急行」の終焉としては、あまりにも寂しい幕引きであることは否めません。

その後、「鳥海」の愛称は、平成2(1990)年9月1日から、上野-青森間を上越線・羽越本線経由で走行する寝台特急列車に冠せられることになります。勿論、寝台特急としての「鳥海」にも、電車特急時代と同じデザインのヘッドマークとテールマークが準備され、ブルトレ編成の前後端を飾っています。
寝台特急としての「鳥海」については、「北陸」などとまとめて、改めて取り上げることにいたします。

次回は、「新雪」など、上越国境を賑わせたレジャー特急について取り上げます。

-その12に続く-


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