今回から25回(予定)に分けて、今年で開業半世紀を迎えた東海道新幹線の歴史回顧をしていきたいと思います。よろしくお付き合いの程をお願い申し上げます。
東海道新幹線は、周知のとおり、昭和39(1964)年10月に東京~新大阪間が開業しました。この開業の時期が、同年に計画されていた東京五輪に間に合わせるためだったというのは有名な話ですが、工事の着手自体は、昭和34(1959)年となっています。
それでは東海道新幹線の計画は、このころ出てきたものなのか?
それは「否」です。これも周知のとおり、「新幹線」の計画は戦前からありました。それが所謂「弾丸列車計画」です。
というわけで、本連載ではまず「前史」として、戦前の「弾丸列車計画」と、島秀雄・十河信二という二人の人物を取り上げることにいたします。
というわけで、本連載ではまず「前史」として、戦前の「弾丸列車計画」と、島秀雄・十河信二という二人の人物を取り上げることにいたします。
「弾丸列車計画」の端緒は、昭和の初期にさかのぼります。
当時、日本本土と朝鮮半島や中国大陸との人や物の行き来が多くなっていました。当時は航空の黎明期でもあり、主な交通手段は鉄道。そのため、本土内のメインルートである東海道・山陽両本線は旅客・貨物とも輸送量が激増し、パンクが危惧されるようになりました。
そこで、両幹線のバイパスルートとして、別の路線を建設すべきという機運が盛り上がるのですが、その過程で、どうせ別線を作るのであれば標準軌にして高規格にし、高速運転をしてはどうかということになりました。これは、当時の朝鮮鉄道(鮮鉄)や南満州鉄道(満鉄)が標準軌を採用していたこともありますが(鮮鉄や満鉄は日本が建設した)、以前に国鉄の標準軌化を目論んだ動きが頓挫したことがあったため、その再挑戦の意味合いもあったといわれます。またそれとは別に、標準軌の採用に傾いたのは、玄界灘に海底トンネルを掘って鮮鉄の路線と接続させれば、大陸への直通運転ができるという目論見もありました。
このような「弾丸列車計画」の基本的な構想は、昭和15(1940)年にまとめられ、昭和29(1954)年をめどに完成させるというタイムスケジュールも含めて、同年の帝国議会で承認されました。ここに「弾丸列車計画」は、いわば「15年計画」ともいえる国家的プロジェクトとして進められることが決定しています。
当時の「弾丸列車計画」に基づいた鉄道路線のスペックについて、詳述は避けますが、車両限界や建築限界、最小曲線半径などは多少の差異こそあるものの、ほぼ現在の東海道新幹線に受け継がれています。
ただ、現在の東海道新幹線と決定的に異なるのは以下の4点。
① 機関車牽引の客車列車方式(動力集中方式)を前提としていたこと。
② 電化区間を一部のみに限り残りを非電化としていたこと。
③ 旅客列車だけではなく貨物列車の運転が計画されていたこと。
④ とりあえず狭軌で建設し、その後順次標準軌に改軌すること。
これらのうち、現在の新幹線と最も異なるのは、動力集中方式の採用を前提としていたことですが(上記①)、これは、当時の電車では高速運転はなし得ても騒音や軸重の問題があり、それを克服するのが当時の技術では難しかったこと(当時参宮急行の2200系や新京阪のデイ100なども高速運転は可能だったが、自重は大変に重かった)や、貨物列車との共存を前提とするならば動力集中方式が効率的だと考えられた(機関車が客貨両用なら機関車の運用効率は高くなる)ことによると思われます。
ともあれ「弾丸列車計画」は動き出し、実際に建設に着手されました。現在、東海道新幹線が走っている新丹那トンネルや日本坂トンネルは、このときの工事で完成していたものを、新幹線に転用したものです。
しかし、戦況の悪化に伴い、昭和18(1943)年度には日本坂トンネル掘削を除く全ての工事を中止することになります。ここに、完成年度とされた昭和29年を待たずに「弾丸列車計画」は頓挫してしまいました。
ところで、当時の「弾丸列車計画」を語るにあたり、「新幹線」という言葉が、一体いつごろから使われ始めたのか、その端緒にも触れておかなければならないでしょう。
「弾丸列車計画」の立案に携わったのは、昭和13(1938)年に鉄道省内部に設立された「鉄道幹線調査分科会」(後に『鉄道幹線調査会』となる)ですが、その内部では新しい幹線を建設するという意味で、既に「新幹線」という言葉が使われていたようです。その他には「広軌幹線」という言葉も使われました。「弾丸列車」という言葉を使ったのは、当時の鉄道省内部ではなく新聞などメディア、そしてそれに影響された世間一般の方だったようで、こちらは「弾丸のように速く列車が走る」という意味で使われていました。
なお、「新幹線」という言葉は戦後、東海道線の広軌別線敷設計画に関し、新しく敷設する路線を「東海道新幹線」と呼ぶようになり、それ以来定着しています。
つまり、「新幹線」という言葉は、戦後の東海道新幹線建設計画で出てきた言葉ではなく、戦前の「弾丸列車計画」の際に、既にあった言葉ということになります。
ちなみに、静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名がありますが、これも戦後の東海道新幹線にちなんだものではなく、戦前の「弾丸列車計画」の際、新丹那トンネルを建設する作業員の宿舎がそのあたりに置かれていたことが由来とのことです。
これは余談ですが、以前、娯楽夕刊紙「東京スポーツ」に「開業50年近く経つのになお『新幹線』?」という記事が掲載されたことがあります。それには、JR東日本の担当者が大真面目に答えていました。確か「新幹線というのは現在の高速輸送システムの総称で、新しいから新幹線というわけではない」という回答だったような。つまり、「新幹線」という言葉は、戦前の「弾丸列車計画」のときには文字通りの「新しい幹線」の意味だったものが、時を経て「高速鉄道システムの総称」という意味に変貌していったといえます。
昭和20(1945)年、ポツダム宣言の受諾に伴い日本の敗戦が確定。戦争が終わりました。
そして戦後の復興が進むと、東海道本線の輸送量はさらなる増加を示し、経済白書が「もはや戦後ではない」と喝破した昭和31年ころには、再び東海道本線のパンクが危惧されるようになりました。
そこで、一度潰えたはずの「広軌別線構想」が、新たな内容をもって動き出すことになります。
-その2に続く-