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2124.疾き者よ その9 JR発足前後の変化

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その8(№2121.)から続く

連載記事のアップも休んでしまいましたが、今週2本、来週2本アップし、所期計画に追いつこうと思います(汗 よろしくお付き合いの程を。

国鉄の改革のためには、「分割・民営化」という荒療治が不可避である。
そのことは政財界では勿論、国民の間でも圧倒的な説得力を持って迎えられました。

となれば、国鉄内部で不毛な労使対立に明け暮れている暇など、もはやないのも道理。
国鉄は列車運行体系のスリム化・合理化を実施しますが、そのことは昭和57(1982)年11月・59(1984)年2月・60(1985)年3月と、2年半足らずの間に実に3度にわたって行われたダイヤ改正でもうかがい知ることができます。
前2者のダイヤ改正の段階では、新快速は無風状態でしたが、最後の昭和60年3月のダイヤ改正では、新快速のダイヤに久しぶりに手が加えられました。

1 新快速を全列車新大阪駅に停車。
2 京都以東を増発し、草津-京都間30分ヘッドとする。

1については、新快速はあくまで滋賀県湖東地区~京阪神~姫路の都市間連絡の使命を有しており、新幹線アクセスは任務の外だったのですが、新大阪停車は大阪-新大阪間のアクセス列車を増やす意味と、新大阪-神戸(三宮)間のアクセスを便利にするという、2つの意味がありました。新快速は1時間当たり4本ですから、データイムは大阪-新大阪間の列車が4本増えるわけで、飛躍的なアクセス改善となっています。また、都心部から離れた位置にあって不便な新神戸駅よりも、三ノ宮駅から新快速で新大阪に出れば新幹線への乗り継ぎが容易になることから、神戸市内からの新幹線へのアクセスが格段に改善されています。新大阪停車が実現したのは、京阪間29分運転のダイヤが変わらずに済むことが分かったからですが、その理由として、足の遅いヤード継送系の貨物列車が昭和59年2月のダイヤ改正で全廃されたことで、新快速の足を引っ張る要因がなくなったことが挙げられます。

そして、「分割・民営化」が本決まりとなった昭和61(1986)年。この年の11月、新会社発足を前提に国鉄としては最後のダイヤ改正が行われました。以下に、新快速にかかわる事項のみを列挙します。
なお、この年実施された総選挙では、「分割・民営化」を推進していた与党・自民党が圧勝、反対していた社会党(当時)の惨敗という結果となったことも、付け加えておきましょう。この結果、国鉄の「分割・民営化」は国民的合意が得られたといってよいと思われます。

1 新快速は複々線区間では外側線走行とする。
2 西明石-姫路間を日中4本/時に増発、西明石に全列車停車。
3 日中2本/時の草津発着列車のうち、1本を彦根へ延長。停車駅は守山・野洲・近江八幡・能登川。
4 日中の湖西線堅田発着列車を近江舞子まで延長、湖西線内を各駅停車とする。
5 18・19時台に2本増発。
6 大阪-明石間で約5分のスピードアップを実施。
7 以上による運用増に対応するため、117系を追加投入。

1は新快速の運転開始当初からの悲願といえるもので、これがようやく実現したことにより、京阪神間では飛躍的な輸送力の増強が可能になりました。これまでは、外側線は国鉄本社の管轄であり、本社が長距離列車や貨物列車などのダイヤを優先的に引いていたため、新快速といえども内側線(電車線。こちらは大阪鉄道管理局の管轄だった)を走行せざるを得ず、複々線といっても実質的に複線でしかありませんでした。それが、組織変更後は内外とも西日本会社の管轄となり、西日本会社がダイヤを引くことができるようになるため、組織変更後の新会社発足に先立ち、このような線路使用を可能にしたものです。これによって、ようやく名実ともに「複々線」になったといっても過言ではありません。
2は姫路発着列車の増加により、特に神姫間の速達サービスの充実を図っています。これは、6のスピードアップとも相まって、さらに大きな効果がもたらされ、神姫間のみならず阪神間においても、並行私鉄に対するアドバンテージを確保することになりました。
3は京都以東の「湖東線」の利用増に対応したもので、当時沿線の住宅開発が進められ、京都や大阪への通勤通学客が増加していきました。当時の管理人がダイヤを見て、最も不可解だったのは、米原発着ではなく彦根発着にしたことでした。これは、国鉄当時このエリアの管理局境界が複雑に入り組んでいることに起因するのかと思っていましたが(米原駅が名古屋、彦根駅が大阪、そして北陸線の坂田は何と金沢だった)、組織変更後の米原駅の帰属が確定していなかったことから、当時はやむを得なかったのでしょう。
そして、地味ですが重要な点として、18・19時台の増発が挙げられます(5)。これは初めてデータイム以外の夕方ラッシュ時における新快速の運転が実現したもので、帰宅ラッシュ輸送が改善されています。
最後に、このとき投入された117系は、側窓を1枚下降窓に、台車をボルスタレスにそれぞれ変更した100番代とされています。座席もバケット型となり、座り心地が改善されています。100番代は6連が3本投入されました(7)。

この改正からちょうど5カ月後の、昭和62(1987)年4月1日。国鉄はJRに改組され、JRグループがスタートします。改組後、新快速の走行エリアは西日本会社、つまりJR西日本に帰属することになりました。
このころは、いわゆるバブル経済の絶頂期。利用者の中に、安さよりも品質で選ぶ層が増えたこと、かつては大きかった並行私鉄と国鉄・JRとの運賃差が徐々に縮小しつつあったことなどから、一度離れた乗客が国鉄・JRに回帰する現象が現れ始め、新快速の乗客は徐々に増え始めます。

そのような中で迎えた、JR発足後初の全国規模のダイヤ改正が、昭和63(1988)年3月13日の改正でした。このときは青函トンネルの開業、さらにその1ヶ月後に瀬戸大橋開業と、本州と北海道・四国が地続きになる、記念すべき年でした。JR各社も「一本列島」として大々的にPRを実施しています。この改正では新快速が米原に入るようになり、米原での新幹線や北陸線などとの乗り継ぎは大幅に改善されました。また、夕ラッシュ時にも増発が図られ、21時台まで運転されるようになり、これも大好評を博しています。

このころになると、117系はフル稼働状態となりますが、利用者は増え続け増結・増発の要望が寄せられるようになります。また、JR発足後においてもなお、朝ラッシュ時における新快速の運転はなされなかったのですが、利用者からの要望は強いものがあり、JR西日本としても、それに応えざるを得なくなってきます。
しかし、現有車両は…。
そこで、JR西日本は、117系に代わる新快速用の車両を投入することを検討し始めます。

その10(№2125.)に続く


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