Quantcast
Channel: さすらい館
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4315

3700.系ものがたり~新生「東京急行電鉄」初の新車

$
0
0

ブログナンバー3700の節目に達しました。

3700といえば、京成の3700があまりにも著名ですが、この車両は以前にも取り上げたことがありますので、今回も東急で行かせて頂きます。

 

東急3700系は、所謂「大東急」分立後の新生「東京急行電鉄」として初めての新車であり、東急にとっては戦後初の新車でもあります。

3700系は「規格型電車」といわれますが、これは、終戦後の混乱期に運輸省傘下の鉄軌道統制機関である日本鉄道協会によって策定された私鉄車両の各種規格に基づいて製造されたからです。当時の東急で投入された車両には、戦災を受けた車を復旧した3600系がありますが、この車両は国有鉄道の定規で製造されたため、車幅が最大2800mmを超えており、そのため当初は東横線・目蒲線のみの運用に限定されていました。これに対し、3700系は車幅が最大2740mmに抑えられており、東急線全線での運用が可能になりました。3700系を投入したのは、3600系が入線できなかった東急の他の路線へも新車を投入したかったためだとされています。

3700系は、電動車が3701~15の15両、制御車が3751~55の5両、計20両が投入されました。

「運輸省規格型」であったためか、東急で戦前から在籍するデハ3450や3500とは様々な相違点がある車両でした。外見上の差異は、車体長がこれらよりもやや長いのと、デハ3500で折角拡大した側窓の上下寸法が、デハ3450以前のそれに戻ってしまったこと。これは当時ガラスが不足していた事情もありやむを得ないのですが、側窓の上下寸法が縮められ幕板が拡大したことで、新車らしからぬ鈍重なイメージを与えてしまっています。

全線で運用できる仕様になっていたとはいえ、新造当初は東横線に投入されています。

東横線に投入された理由は、東横線が東急のメイン路線であったという位置付けもそうでしょうが、当時の東急では唯一の優等列車を運転していたことにもよると思われます。というのは、3700系には弱め界磁制御機能を搭載しており、これが高速運転に寄与するからです。とはいえ、東横線急行の復活が昭和25(1950)年、その4年後にはあの「青ガエル」5000系が登場して急行運用に就きますから、同系が急行運用に就いていたのは、それほど長い期間ではなかったように思われます。そのためか、後に高速運転の機会がなくなったとして、弱め界磁制御機能は殺されてしまうことになります。

 

3700系は、他の3000系列吊り掛け車に先んじて、昭和36(1961)年から車体内外の更新改造が施されます。戦前製のデハ3450や3500よりも更新の着手が早かったのは、鋼板が戦災に遭って焼損したものを使っていたため劣化が激しかったからだとされています。それ以前にも、終戦直後の混乱した状況下で製造されたせいか、各所に不具合が出たとされています。

ともあれ、更新改造によって窓の上下寸法が拡大され、以前あった鈍重さはかなり払拭されました。

その後は主に目蒲線で3連を組んで使用されていましたが、3700系の制御車が5両しかなかったことから、他の系列の制御車を連結したり、あるいは電動車自体も、他形式との混結がされていたりしたのも日常茶飯事でした。

3700系は、昭和50(1975)年より淘汰が始まり、デハ3700形3701~08及びクハ3750形3751~54の計12両が、同年に退役しています。残ったデハ3700形3709~3715及びクハ3750形3755の計8両がその5年後、昭和55(1980)年に退役し、東急の路線上から3700系はすべて姿を消しました。

 

では、退役した3700系は、全て解体処分にされてしまったのか?

 

実はそうではなく、3700系全車両は、何と名古屋鉄道(名鉄)に譲渡されていました。昭和50年に退役した12両は同年中に(第1次移籍)、昭和55年に退役した8両はやはりその年のうちに(第2次移籍)、それぞれ移籍していきました。

理由は、名鉄には3800系という、東急3700系と同じ「運輸省規格型」電車が在籍しており、しかも制御装置などが当時名鉄に在籍していた自動加速制御(AL)車と共通だったことから、これらAL車の混結・共通運用を目論んでのことでした。あとは、当時クロスシート車が主体だった名鉄でも石油ショックの影響などにより乗客が増加し、ラッシュ時の混雑が激化していたため、収容力と乗降性に優れる3扉のロングシート車を導入したかったという名鉄側の事情もありました。他に類例を見ない大手私鉄同士の車両の譲渡劇が実現したことは、当時の鉄道趣味界ではかなり話題になったものですが、鉄道業界も騒然となったと聞きます。

 

移籍した東急3700系は、名鉄で「3880系」を名乗り、3連を組成して犬山線などで使用され、ラッシュ時の混雑緩和と遅延の防止に絶大な威力を発揮します。この3880系の運用実績が、後年名鉄に6000系投入を決断させたという話もあります。

ただ、当初目論んでいた3800系などAL車との混結・共通運用は実現しませんでした。その理由は、前述したとおり、東急在籍時代に弱め界磁の回路を殺してしまっていて、復旧が難しかったからです。しかし、この弱め界磁回路を殺したままで復旧できなかったことが、名鉄での高速運転を不可能としてしまいました。それ故に、同系の運用効率もそれほど上がらず、そのことが同系の寿命を縮めることにもなってしまいました。

昭和55年の第2次移籍の際は、3連を組むためには制御車が足りないことから、名鉄譲渡後電動車の1両の電装を解除して制御車として使用し、それでも足りない1両は3600系のものを加えることで(クハ3671も併せて名鉄に譲渡された)、3連が7本組成できるようになりました。

 

このように、名鉄各路線のラッシュ対策に絶大な威力を発揮した3880系も、他のAL車に比べて性能が劣ること、それにより運用効率が高くならないこと、そしてそもそも他のAL車との混結も共通運用もできないことから、第2次移籍の翌年の昭和56(1981)年には、早くも退役するものが出始めます。このとき退役したのは、第1次移籍で名鉄に来た車両ですが、このときの車両は、昭和58(1983)年までに退役が完了しています。

第2次移籍で名鉄に来た車両の活躍も長くは続かず、6000系列の増備の進捗に伴って、遂に3880系は全廃されることになり、昭和61(1986)年3月に全車退役しました。退役後は全て解体処分にされています。

 

東急3700系~名鉄3880系の生涯は、長いものでも39年であり、戦前から東急に在籍したデハ3450や3500、さらには現在の田園都市線の8500系よりも短いものでしたが、終戦後の混乱期に登場して東急の輸送を支え、そして名鉄へ移ってからもラッシュ時の輸送を支えていた功労は、正当に評価されるべきだと思います。

 

※ 当記事は、以前に書き貯めたものの自動投稿です。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4315

Latest Images

Trending Articles