今回は東急のデハ3500を取り上げます。
3450、3600、3650、3700、3800と来て、3500を取り上げないのも画竜点睛を欠く気がしてきましたので、ブログナンバーとは何の関係もありませんが、今回取り上げることにいたします。以前のブログナンバー3500のとき、東急ではなく京成の3500を取り上げたのですが、「東急の3500じゃないのか」というコメントを頂戴したことがありますが、やはり東急3500を取り上げればよかったと思っています(^_^;)
デハ3500は、東急の前身・東京横浜電鉄のモハ1000形として、昭和14(1939)年から全22両が投入されました。メーカーは全車川崎車輛(現川崎重工)。両エンドに片隅式運転台を備えた両運転台・非貫通というスタイルは、先輩格のモハ510(→デハ3450)と同じですが、こちらは窓が大きくなり、より軽快なスタイルになったことが異なります。モハ1000形は、窓が大きくなったことでモハ510形よりも軽快なイメージとなり、まだリベットは残るものの、戦前における電車のひとつの完成型ということができます。
モハ1000形の特徴は、将来的な狭軌→標準軌への改軌を見越し、長軸台車を導入したこと。これは、京浜電鉄(現京急本線)に直通して浦賀方面へ直通する計画があったからですが、小田急・京浜・東横が合併した「大東急」時代においても、その後戦争へ突入したこともあるのか、その計画は実現しないまま、「大東急」は分割されてしまいました。
結局モハ1000改めデハ3500は、22両全車が「大東急」分割後の新生東京急行電鉄に残り、その後デハ3450と同じように、運転台の全室化・片運転台化が行われ、さらに中間にT車を挟んだ3連を組成するために、偶数車が方向転換されています。運転台のある側の全面は、1両(3508)を除き非貫通。そのため、デハ3450ほど形態の差異はなく、趣味的にはあまり面白い車両ではなくなっています。
それでもネタはあるものでして…。
1 塗装試験車
戦後、緑色(先代5000系青ガエルや、現役末期の3000系列の緑よりも濃い色だった)の外板塗色を明るいものにしようと、デハ3500に2種類の試験塗装が施されたことがあります。試験塗装は2種類。1つはグリーン+オレンジという湘南電車に類似したもの、もう1つは銀色に赤い帯という、現在の東急バス一般路線車の塗装にそっくりなものでした。
結局のところ、いずれも採用されることはなく、昭和28(1953)年にデハ3800・クハ3850が紺色に山吹色のツートンカラーを纏って登場していますが、その後デハ3500をはじめとした従来車も、その紺+山吹色のツートンカラーに塗り替えられています。
2 唯一の前面貫通車デハ3508
この車両だけは本当に不思議な車両で、昭和54(1979)年ころまでは、3600系の車体載せ替え車と同じ「東急標準車体」となっていました。同じように、デハ3450の一員であるデハ3472も東急標準車体になっていますが、あれは道路併用橋時代の二子橋でトレーラーと衝突事故を起こし、車体が再起不能のダメージを負ったから。それではデハ3508は…とずっと不思議でした。
後で知ったのですが、デハ3508は戦時中に発生した火災により、電装を持たないクハとして復旧され(クハ3657)、その後再電装され原車号に復した経験を有する車両です。もしかしたら、このとき車体が火に巻かれていたためダメージが甚大であり、それ故に車体を載せ替えたのでは…と思われます。
後述するとおり、デハ3500形は2回の更新を経て、現役最末期は「海坊主」と呼ばれる独特の風貌になっていますが、他の車両が「海坊主」化した後もしばらくの間、このデハ3508と、コンビを組むデハ3507は、最後まで「海坊主」化がなされないままの姿を保っていました。
ちなみにこのデハ3508、「海坊主」化がなされた後も貫通扉を堅持していたという…。
3 2度の更新工事
デハ3500も、窓のアルミサッシ化、内装のアルミデコラ化などの更新工事を経ていますが、昭和51(1976)年からの工事はさらに徹底したもので、張上げ屋根にした上、前面の「おでこ」をつるつるに磨き上げたようにも見える、一種独特の風貌で現れ、当時の鉄道趣味界では大変な話題となりました。この工事によって、見かけは確かに近代化したものの、原型の面影が殆どなくなってしまったとあって、落胆する人も多くいました。
ただ、今思えば、結局平成元(1989)年まで活躍したのですから、いっそ冷房装置を搭載してしまえば、もっと寿命が延びたような気もしないでもないですが。
それでも、昭和50年代に入って「海坊主」化という、ある程度大掛かりな更新修繕を行ったことは、東急の吊り掛け駆動車としては最後まで残るであろうという、会社としての判断があったことは、想像に難くありません。
4 池上線に入ったデハ3500
末期のデハ3500は、中間にT車を挟んだ3連を組み、専ら目蒲線(当時)で使用されました。これは、専ら池上線で使用されてきたデハ3650とは対照的です。
3000系列吊り掛け車の淘汰が本格化してきたのは昭和60(1985)年ころですが、このころ、デハ3500の3連が池上線にトレードされ、しばらく同線で営業運転に入っていました。ただ、後にデハ3650の3連が目蒲線にトレードされたときほどには、このときは鉄道趣味界では話題になっていなかったような。
懸命の活躍を続けてきたデハ3500も、流石に昭和60年代になると、サービスレベルに難があることが指摘されるようになってきました。その主なものは、吊り掛け駆動故に騒音が大きいこと、乗り心地がカルダン駆動車に比べて劣ることなどですが、最大の難点は冷房がないことでした。冷房がない、うるさい「走るサウナ」では、もはや利用客の満足は得られないということです。
そのため、22両全車が揃って活躍してきたデハ3500は、遂に平成元(1989)年3月、全車退役することになります(実際には3連1編成が予備車として同年夏ころまで残存)。モハ1000として生を受けて、ちょうど60年を経過した年のことでした。
デハ3500はデハ3450及びデハ3650と共に、東急戦前型の「三兄弟」として語られることが多いのですが、50両と両数が多く個体ごとの差異も多いデハ3450や、6両と両数こそ少ないものの、当初はクハとして落成し数奇な変遷をたどったデハ3650にくらべると、デハ3500は22両という勢力であり、しかも個体ごとの差異も少ないとあって、鉄道趣味界の注目度はこの両形式に比べると、率直に言って一歩譲るところはありました。しかし、平成元(1989)年3月の東急線からの吊り掛け駆動車完全撤退まで全車現役を貫き、他社に移籍したものも1両も出さないまま、60年の人生(車生?)を全うした。このことの偉大さは、いくら強調してもし過ぎることはありません。
◇関連記事
№3600.系ものがたり~東急の戦後復興を支えた大功労者(車)