-その4(№3898.)から続く-
今回から3回に分けて、485系が大躍進を遂げた昭和47(1972)年から3年間の動きを取り上げます。昭和47年、同系は489系ともども大量に増備され、まさに485系一族の「第1期黄金時代」を迎えたといえます。
予告編とはやや内容・順番を違えてお送りすることになりますが、ご容赦ください。
昭和47(1972)年3月15日、山陽新幹線新大阪-岡山間が開業します。
これに伴って、山陽・九州方面への特急運転系統も刷新され、「つばめ」「はと」と夜行の「月光」がそれぞれ岡山発着とされ、かつ「つばめ」は岡山-博多・熊本間で6往復とされるなど、増発もなされます。その一方で、新大阪発着の四国連絡の特急・急行は、一部夜間に走行する急行以外、新幹線に使命を譲って廃止されました。
さて、それではこの山陽系統でどれだけ485系の運用が増えたかといえば、改正前に比べ1往復だけ。改正前の同系の運用は「みどり」(大阪-大分)「しおじ」(新大阪-下関)「うずしお」(新大阪-宇野)それぞれ1往復だったのですが、この改正では「つばめ」(岡山-博多)と「はと」(岡山-下関)各1往復が加わりました。しかし、宇野へ向かう四国連絡特急は全て廃止されたため「うずしお」運用がなくなり、これの1往復減少分で、プラスマイナス1往復だけの増となっているという次第。その他の増発列車の分は583系の充当となっており、これは昼夜兼行の可能な同系の長所を遺憾なく発揮したものとなっています。
また、上野-金沢間を信越線経由で結んでいた客車急行「白山」が489系によって電車化と特急格上げがなされ、同じ区間を特急として走り始めたのは、前回取り上げたとおりです。
昭和47年3月のダイヤ改正は西日本の列車体系が刷新されたため、山陽・九州系統に徹底的に手が入れられたイメージが強いのですが、東北方面もかなり手が入れられています。その最たるものは昼行急行「十和田」(旧『みちのく』。常磐線経由上野-青森)の特急格上げですが、こちらは583系が充当されたので485系は無関係。「はつかり」も然り。
485系に関係するところで言えば、「ひばり」が定期9・不定期2の合計11往復、「やまびこ」も増発が行われて3往復となりました。
…とこのように、昭和47年3月のダイヤ改正では特急列車の増発を含め、かなりの本数の優等列車が増発されたのですが、それでも輸送量の伸び、需要の増加に応えることはできませんでした。
そこで、国鉄は、「日本海縦貫線」で最後まで非電化で残った羽越線の村上-秋田間の電化完成を機に、同じ年の秋に再度のダイヤ改正を敢行することとし、それを目指して車両を大量に増備することになりました。その内訳は、485系を367両、489系を52両、両者を合わせて実に419両! これは大量に増備された485系一族の中でも、最も大量に増備された年度ということになりました。
これら大量に増備された485・489系でしたが、この年度の途中から設計変更がなされることになりました。それが485・489系の200番代です。この設計変更は、同じ年に登場した183系や、先発の583系の設計思想を取り入れたものです。
200番代として区分されたのは、先頭車クハ481・489とパンタグラフ搭載のM’車モハ484・488だけで、その他の車両は在来車の続番とされましたが、その他の車両でもそれまでの外観上の特徴だった「キノコクーラー」、つまり冷房装置2台を1組にしてケーシングする設置方法を止め、1台ずつ分割して設置する方法に改められています。そのため、在来車との続番とされたモハ485、サロ481、サシ481は、それまでの2台1組のキノコ型のケーシングではなく、1台ずつ独立した箱型のケーシングとなったため、車番こそ続番ではあるものの、印象がかなり変わっています。
中でも最も変わったのが中間M’車のモハ484・488。この両者は、従来の車両では屋根上に冷房装置を搭載するスペースが足りないため、客室スペースを潰して床置型の冷房装置を搭載していたのですが、屋根上に大容量の集中型冷房装置1台を搭載し、1両分の冷房をその1台で賄えるようにしたため、その分従来型と比べて客室スペースが増え、定員が増加しています。
そして先頭車クハ481・489は、183系が貫通構造を採用したことから、その発想を485系にも流用したことと、以前先頭車のボンネット部分に搭載していた機器類が、小型化・低騒音化によって床下搭載でも問題がなくなったことから、ボンネットスタイルを止め、183系のような貫通構造となりました。ボンネットスタイルを止めたことで、客室に充てることのできるスペースが増え、定員増加に寄与しています。
しかし、貫通構造とは言っても、そこは特急型。急行型車両のように貫通扉を露出させるのではなく、貫通路に蓋をする飾り扉を設け、その飾り扉が開くことで初めて貫通路が露出して連結できるようになるという、見た目にも十分な配慮が図られたものでした。貫通扉に飾り扉を設けて幌などを露出させない構造は、近鉄特急で採用されていますが、あちらは飾り扉に窓があるので、485系とは異なります。ただしクハ489は、補助機関車と連結する側は600番代という別番代が起こされていますが、このクハ489-600の連結器はボンネット車の自動連結器ではなく、他の電車と同じ密着連結器となっています。そのため、500番代のワイルドな印象はなくなり、他の車両と区別がつきにくくなってしまいました。
モハ484・488とクハ481・489に関しては、このように変更点があまりにも多いので、新たに200番代が起こされたわけです。しかしその反射として、これまで同じ番号で進んできたモハ484・485、モハ488・489のユニットは、番号が揃わなくなってしまいました。
さらに以上とは別に、モハ484には専務車掌室を設けた仕様の車両が新たに登場し、600番代が起こされました。
ここでひとつの疑問が浮かびます。ボンネットスタイルを止めて座席定員を増やそうとするのはわかりますが、なぜ貫通構造を採用したのか?
これは、東北系統の特急で分割併合運用を行う構想があったためです。例えば東北本線方面の列車と奥羽本線方面の列車を上野-福島間で併結して運転すれば、東北本線の線路容量がそれだけ減らせるからです。だからこそ、クハ481-200は貫通構造を採用し、かつ青森に配属されました。しかし、この分割併合の計画は沙汰止みになりました。これも言われている理由は、奥羽本線方面では冬の積雪でダイヤが乱れる場合があり、そうなった場合に福島駅で併結できなかったりすると、かえってダイヤ乱れが酷くなるからということですが、それなら福島駅でどちらかの運転を打ち切るか、福島から特発列車を出せば済む話のはずです。やはり、当時の労使関係が負担の大きくなる併結運転を嫌がったことが最大の理由なのでは…と思われます。
そして485系が本当の意味で大躍進を遂げるのは、同じ年に行われた10月2日のダイヤ改正です。
-その6へ続く-