先月、京急川崎駅で遭遇しながら、まともに撮影することができなかった「京急120年の歩み号」。
これは、1500形の4連をそれぞれ戦前・戦後・現行(2種)に分けて、ラッピングにより当時のカラーリングを再現するもので、1両ごとに異なるカラーリングとなっています。
浦賀方先頭車は、↓のような赤茶色。この赤茶色は、大正期から戦前・戦後にかけて活躍したデ51形をイメージしているとのことです。
他の京急の車両とは色味が異なる
こちらが浦賀方先頭車・1521のサイドビュー。
戦前・戦後の車両には必ずあった、窓の上下の補強材だけではなく、リベットのゴツゴツ、さらには客用扉の木製の質感までラッピングで再現されています。
芸が細かい
恐らく、芸の細かさではこの1521が編成中随一ではないかと思われます。
こちらは2号車1522。
この車は、戦後に登場したクロスシート車・500形の塗装をイメージしています。500形といえば、現在の2100形の大先輩。ただし500形には、窓の上下の補強材がないので、1500形本来の平滑な側面のままとされています。
かと思えば、この車にも昭和の京急ファンには懐かしい表記が!
「KEIKYU」ではなく「KHK」
かつて800形の登場時や、旧1000形の側面端部には、KHKというアルファベット3文字のロゴが必ずあったものです。昭和20~30年代には、大手私鉄では自社のロゴをアルファベット3文字で表すのが流行(といっていいのか?)しており、有名なのが東急の「TKK」。その他にも、京王の「KTR」(当時の社名は京王電鉄ではなく京王帝都電鉄だった)、小田急の「OER」、京成の「KDK」がありました。関東私鉄以外でも、西鉄が昭和末期まで「NNR」を使っていたような。
で、京急は「KHK」なのですが、これは「KeiHinKyuko」か「KeiHinkyukoKabushikigaisha」のいずれかを表すというのが一般的な理解と思われます。しかし、京急は本当は「KKK」、すなわち「KeihinKyukoKabushikigaisha」としたかったという話があります。なぜそうならなかったのかについては、やはり別のKKKと混同されるのを嫌がったからと見るべきではないかと。
ちなみに、「KKK」の略称を使っていた国際興業バスが、この略称を使い始めたのは昭和34(1959)年ですから、京急が「KKK」の採用を止めたこととは関係ありません。
3号車1523は現行のカラーリング。
現行色
そして品川方先頭1524も現行のカラーリング…なのですが、1000形や2100形などに採用されている、赤地に窓周り白(アイボリー?)と、1523とは塗り分けが異なっています。1500形のオリジナルは1523の方ですから、こちらはラッピングによって再現しています。
隣の1523と白の色調が違う?
どうも1523と1524の白の色調が違うように思われます。やはり1524の窓周りはアイボリーなのでしょうか。
色調が違うといえば、赤+黄の1522と現行の1523もそう。赤+黄のときは、赤が現在のそれよりもくすんだ色だったそうで、もしそうであれば、この色味の違いは再現度が極めて高いといえます。
色味が明らかに違う
以上は外装ですが、内装でもこの編成は特徴的です。
まずは、中吊りが「京急120年の歩み号」のPRとなっていること。
1両ごとの違いが説明されている
窓上にも京急の歴史を取り上げた掲示物が。
今見ると物騒だが
これは昭和10年代の観光パンフレットを紹介するものですが、当時から三浦半島が観光地として注目されていたものの、同時に要塞地域として一般人の立ち入り・撮影が制限されるエリアが多かったため、注意を喚起する意味で「護れ要塞 防げよスパイ」なる、およそ観光パンフレットには不似合いなキャッチフレーズが盛り込まれたのでしょう。勿論、戦争の足音が日々大きくなってきていた、当時の世相を反映しているものでもあります。
この観光パンフレットが作られたときから約80年が経ちますが、日本は確かに表面的には平和になり、そのおかげで自由な鉄道趣味を楽しめるようにもなりました。しかし、戦勝国から国の根本規範である憲法を押し付けられ、戦後の日本はそれを後生大事に押し頂いてきました。しかも国防を他人任せ、他国任せにし続けて70年以上が経過、その結果、日本国も日本人も「国防意識」を忘れてしまったように思います。そのことに言い知れぬ危機感を抱くのは、果たして管理人だけでしょうか。
(この件に関するコメントはご遠慮願います)
このあと、管理人はこの編成に乗車し、京急川崎から2つ目の港町駅で下車。ここで「京急120年の歩み号」を改めて狙ったのですが、同時に思いもよらない編成にも遭遇することになりました。