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4923.にっぽんのステンレスカー60年史 その5 オールステンレス第1世代の登場(後編)

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その4(№4915.)から続く

今回は、東急7000系(初代・以下同じ)に始まる「オールステンレスカー第1世代」を概観していきます。今回挙げるのは東急7000系と同世代の京王3000系・南海6000系ですが、東急では後に、昭和42(1967)年の7200系導入を機に、アメリカンスタイルから脱却する動きもありました。今回はそのことも取り上げます。

京王3000系
東急7000系と同様、米国バッド社の技術提携により東急車輌製造で製造された車両。昭和37(1962)年から何と平成3(1991)年までの長きにわたり、実に145両が製造されました。最初に登場した2編成は裾絞りのない狭幅車体で客用扉は片開き(窓配置は京王線用の5000系と同じ)であったのに対し、3編成目からは裾絞りのある広幅車体で客用扉が両開きになりました。東急7000系との相違点は、車体長(18.5mで7000系よりも0.5m長い)と先頭形状。7000系がアメリカンスタイルそのままだったのに対し、こちらはおとなしい2枚窓の「湘南型」でした。
湘南型前面のステンレスカーであれば、前回取り上げた茨城交通湊線(当時)のケハ600形がありますが、京王3000系はこれとは異なり、湘南型の顔の部分、前面上半分を強化プラスチック(FRP)で構成しました(のちの更新時に普通鋼製・窓部分をパノラミックウインドウに変更)。今でこそ、前面へのFRPの使用は全く珍しくなくなっていますが、その第一号はこの車両でした。採用した理由は、当時の加工技術ではステンレス鋼で複雑な先頭形状を作ることが難しかったから(あるいはケハ600は1両だけで試作的要素が強かったから実現した?)。そしてFRPを編成ごとに異なる7種類の色に着色し、「ステンプラカー」「レインボーカラー」として人気を博しました。
仕様変更は他にもあり、第10編成以降と既存編成5連化のため増備されたデハ3100形は従来の抵抗制御が界磁チョッパ制御に変更、第14編成以降は冷房装置を登場時から搭載(第14・15編成は試作冷房車で、第16編成以降が量産冷房車。のちに第13編成以前にも改造で搭載)、さらに第20編成以降は骨組みが見直されて軽量構造となり、車外の見付がすっきりしています。
京王線用ではなく井の頭線用の車両にステンレス車を導入した理由について、当時の京王では「京王線は踏切が非常に多く、接触・衝突事故も多いので事後の修復がしやすい普通鋼製車の方が有利である」として、3000系の1年後に登場した5000系及びその9年後に登場した6000系は、いずれも普通鋼製車体を採用しています。京王線におけるステンレス車の採用は、3000系導入の実に22年後、昭和59(1984)年の7000系の導入まで待つことになりました。

南海6000系
京王3000系と同時期に導入された、関西私鉄としては初のオールステンレス車両。当然のことながら米国バッド社との技術提携の下に東急車輌製造にて製造され、台車も屋根上の通風器も東急7000系と同じものを採用しています(通風器は後の冷房化により撤去)。
南海6000系が東急7000系や京王3000系と異なるのは、これら「オールステンレスカー1期生」の中で唯一、20m4扉であったこと。ただし20m4扉といっても国鉄103系のような両開き扉ではなく、片開き扉でした。
6000系の前面形状は、東急7000系のようなアメリカンスタイルでもなければ、さりとて京王3000系のようなFRPを使った形態でもない、オーソドックスな半流線形の柔らかな形状となりました。これは、貫通扉を設けて増解結を容易にしたという理由もありました。
ところで、南海では6000系と同時期に増備された、南海線用の7000系は6000系と同じような窓配置・車体構造でありながら普通鋼製とされていますが、これも当時の南海線には踏切が多かったため、踏切の少ない高野線用にステンレスカーを導入し、南海線には普通鋼製の車両を導入したという、京王と同様の経緯があります。6000系は登場後57年経過する現在なお全車が健在ですが、7000系は数年前、全車退役を余儀なくされました。これは南海線が海沿いを走るため、塩害によるダメージが蓄積したのが理由です。

アメリカンスタイルからの脱却・7200系
7000系を導入した東急では、同系がオールMであるが故、電力消費量の多さが問題になり、1M方式の経済的な車両が求められました。
そのような要求に応えて導入されたのが7200系で、昭和42年からMcTcの2連が順次導入され、田園都市線に投入されました。7200系は、車幅を2744mmと地方鉄道の定規の中に収め、池上線を含む東急全線での運用が可能になっています。当初はMcTcの2連でしたが、後に中間電動車を含むMcMMTcの4連も作られ、こちらは4連+2連で東横線に投入されました(後に8連化され急行運用に充当)。
この車両の特徴は、正面形状に「ダイヤモンドカット」と呼ばれる「く」の字形状の断面となったことと、側窓に1枚下降窓を採用したこと。さらに7000系にはなかった、窓上から屋根肩部にかけてのコルゲーションの装飾。これらにより、スポット溶接を多用した車体の作り方は7000系と同じでも、同系の武骨なアメリカンスタイルから脱却し、よりスマートな外観になりました。その他、台車でも変化が見られ、M車は7000系のパイオニア台車から脱却、T車もパイオニア型でありながらブレーキディスクを内蔵型とした構造に変更されています(後にT車のものはM車と同じ台車に変更)。
7200系は昭和47(1972)年までに53両(アルミ試作車2両を含む)が導入されています。
なお、7000系では区分されていなかった日立車と東洋車ですが、7200系では後者を50番代として区別しています(当初は連番だったが、昭和42年に改番)。

同前・8000系
7200系登場の2年後、将来の新玉川線開業を見据え、東急としては初の20m4扉の大型車となる8000系が登場しました。
8000系については、7200系を車体長20mにストレッチしたような車体となりましたが、先頭形状はシンプルな切妻となっており、そこが7200系と異なっています。また、1枚下降窓の開口スペースも地下鉄乗り入れを考えた結果か、7200系に比べて縮小されており、床面上から1200mm(後に1270mm、地下鉄乗り入れ対応車両は1400mm)としています。車体がスポット溶接により組み立てられていること、窓の上下にコルゲーションが取り付けられているのは7200系と同じですが、窓上部のコルゲーションは屋根肩部にはかかっておらず、通常の屋根構造となっています。
台車はM車・T車とも7200系とほぼ共通の構造となっており、こちらのT車の台車も後年、ディスクブレーキ内蔵のパイオニア型からM車と同じ型のものに交換されています。
この8000系は、両先頭車をM車とした改良バージョンの8500系が登場し、こちらも8000系同様の車体構造を有しますが、このあたりになると、完全に7000系のバッド臭はなくなってしまいました。それでも8000・8500系の一部の車両には、米国バッド社との技術提携を示すプレートが取り付けられています。

昭和50年代も半ばになると、ステンレス鋼の高い耐久性に着目し、より一層の軽量化の可能性が模索されるようになります。
その結果、昭和54(1979)年、東急車輌が軽量ステンレスの試作車両を世に出すことになるのですが、次回はその動きを取り上げる前に、国鉄におけるステンレスカーの展開を見ていくことにします。

 

-その6に続く-


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