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4928.にっぽんのステンレスカー60年史 その6 国鉄に登場したステンレス車列伝

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その5(№4923.)から続く

今回は、国鉄におけるステンレス車両の導入の歴史を見ていくことにします。
周知のとおり、国鉄がステンレス車両を本格的に導入するに至ったのは、国鉄最末期の昭和60(1985)年に登場した205系が最初です。あのサロ95900の登場から、実に27年後のことでした。
しかし、それ以外にも、以下のとおり国鉄でもステンレス車両は登場しました。

1 EF10形電気機関車
これについては第1回の冒頭で言及していますが、当初同機は関門トンネル(下関-門司)間の専用機として使用されていました。
関門トンネルは海底トンネルであり、漏水が海水で塩分が含まれていることから、そこを通る車両は、車体その他に対して塩害を被ることになります。特に同区間で専用に使用されているEF10形については、その対策が急務とされました。
そこで、昭和28(1953)年、同機のうち10機について、車体の外板をステンレスに張り替える工事を施しました。一部の罐はその上に塗装を施し、普通鋼製の一般機と区別がつかない風貌となりましたが、唯一24号機のみがステンレス無塗装のままとされ、銀色の輝きを放ったまま、関門トンネルで旅客・貨物列車の牽引に使用されました。
EF10形は、昭和36(1961)年の北九州地区交流電化及びそれに対応したEF30形の導入に伴い、関門トンネルの運用から撤退し、首都圏の直流電化区間に転用されました。このころまでには、24号機も塗装が施され、ステンレスを張った罐も一般の罐と見分けがつかなくなってしまいました。

2 EF30形電気機関車
昭和35(1960)年に試作機が登場、翌年から量産機が登場した、EF10に代わる「関門の渡し守」。北九州地区電化に伴い、門司駅構内が交流電化に切り替えられたため、直流専用機であるEF10形の継続使用が不可能になったため、交直両用機として製造されました。ただし関門トンネル区間は直流電化のまま、交流電化区間は門司駅構内しか走らないため、交流電化区間の走行性能は低く抑えられています(実際には門司より先の東小倉貨物駅まで入線する運用があった)。
当然のことながら、車体のみならず機器類にも徹底した塩害対策が施されていますが、やはり外板をステンレス鋼とした、銀色に輝く無塗装の車体は、当時SLも出入りしていた関門地区では、かなり目立っていました。量産機である2号機以降は、ステンレス車両には付き物だった車体のコルゲーションがあったのですが、試作機の1号機は、そのコルゲーションが全くない平滑な車体で現れ、鉄道趣味界でも大いに注目されました。
ただしEF30形は、車体の構造は普通鋼の骨組みにステンレス鋼の外板を張り付けたもので、その意味でサロ95900や東急5200系などと同じ「スキンステンレス」車体となっています。

3 EF81形300番代
時系列的にはキハ35900の方が先なのですが、便宜上こちらを先に取り上げることにします。
関門トンネル区間の輸送力増強のため、昭和48(1973)年から翌年にかけて4機だけ製造されたものですが、0番代は車体が普通鋼製であるのに対し、300番代はステンレス鋼製(スキンステンレス)の車体とされました。性能は0番代(57号機以降)と全く同一ですが、当初は重連総括機能がありませんでした(後に改造により搭載)。
当初は4機ともステンレス無塗装だったのですが、昭和53(1978)年に内郷機関区へ転属した2機は、ローズピンクの塗装が施されました。この2機はその後関門地区に戻りましたが、その後も塗装は施されたままで、ステンレス無塗装のまま残った2機とは対照的な姿となっています。

4 キハ35 900番代
昭和38(1963)年に10両だけが登場した、気動車としては初となるオールステンレス車両。
前3項は外板だけがステンレスのスキンステンレス車両ですが、こちらはオールステンレス。東急や南海などと同じように、米国バッド社のライセンスの下車体を製造した車両です。したがって、同車は全てが東急車輌製造の手によるものとなっています。もっとも、上記各私鉄とは異なり、電車ではなく気動車であるところが注目されますが、これは、無塗装化による塗装工程の合理化、車体の軽量化による単位重量当たりの出力向上が狙いとされています。この車両が投入されたのは房総地区。房総地区には海沿いを走る路線があり、塩害対策という目的もありました。
キハ35系は台枠の強化(自重の増加)をすることなく乗降扉にステップを設ける必要から、客用扉が外吊りになっているという、非常に特徴的な風貌をしていますが、キハ35 900番代(以下キハ35-900)は、その客用扉を吊る部分が車体全体に伸びている点が、普通鋼製車の0番代・500番代と異なる点となっていました。これはステンレス車両のメリットを生かすため、外板を薄くしたことにより、客用扉を吊る部分で強度を負担させる必要があったためです。
それではなぜ、キハ35-900は僅か10両の製造にとどまったのか? 
その理由は多岐にわたります。
まずはステンレス車両の導入コスト(イニシャルコスト)が高く、車体の軽量化や塗装の合理化というメリットを考慮してもなお、ペイできるものではなかったこと。この車両を導入した際、塗装現場の合理化が意図されていたことから、組合の激烈な抵抗に遭ったことが語られることが多く、それで大量の導入が憚られた…などと語られることもあります。確かにそのような、労働組合の抵抗があったのは事実ですが、実際のところは、労使関係よりもイニシャルコストの問題の方が大きかったようです。
そしてこれが最大の理由ですが、同車が米国バッド社のライセンスの下に製造されているため、東急車輌製造以外では製造できなかったこと。これがなぜ、と思われるかもしれませんが、実は国鉄は公共企業体であることから、私企業である東急や南海などの私鉄各社とは異なり、車両メーカー各社に均等に発注する必要があったのです。このような「均等発注」の要件を満たすためには、東急車輌製造が保有している技術的なノウハウを同業他社に公開するしかありませんが、それは米国バッド社の手前、絶対にできない相談でした。良くも悪くも、米国は世界に冠たる「契約社会」。契約の強制力の前には、流石の東急車輌製造もノウハウを公開するわけにはいかなかったのです。
それならオールステンレスではなくスキンステンレスにすれば、と思いますが、スキンステンレスだと台枠その他の骨組みが普通鋼製となることから、軽量化の効果が限定的であり、明らかなメリットは塗装現場の合理化しかなくなってしまいます。しかし塗装現場の合理化でコストダウンが図れても、イニシャルコストの回収が覚束ない。

このようなことから、キハ35-900は、たった10両の製造にとどまったのでしょう。

5 その後
キハ35-900の登場後、国鉄におけるステンレス車の歴史は、第3項で取り上げたEF81の300番代を除けば、同車登場の22年後、昭和60(1985)年登場の205系電車まで途切れることになります。気動車に限れば、さらにその1年後の昭和61(1986)年登場のキハ185系まで途切れました。
これは、205系やキハ185系が、同じステンレス車両でも「軽量ステンレス車体」であり、キハ35900とは全く異なるもので、それ故に米国バッド社の技術提携の縛りから全く自由な工法であることが理由なのですが、それではその「軽量ステンレス車体」の登場の経緯は、どのようなものだったのか。次回はそのことを見ていきましょう。

-その7に続く-
 


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