-その6(№4928.)から続く-
ステンレス鋼は劣化しにくい。
ということは、普通鋼製車であれば必然的に考慮せざるを得ない「腐食代(しろ)」を考慮する必要は、少なくとも理論的にはなくなります。
そこで、東急車輛製造の技術者たちは、ステンレス鋼の特質をより生かすべく、従来よりも軽量化された、新しいステンレス車両の設計・製造に着手することになりました。それが昭和51(1976)年のこと。8500系が鉄道友の会ローレル賞を受賞し鉄道趣味界が沸き立った、まさにその年のことでした。
掲げたのは「アルミ車に匹敵する軽量化」「鋼製車に対抗できるコスト」。当時既に営団地下鉄などでは、多くのアルミ車を世に出しており、イニシャルコストこそ高いものの、車体の軽量化の効果は絶大とされました。他方、イニシャルコストの面では普通鋼製車が圧倒的に有利。つまり、当時のステンレス車両は、軽量化ではアルミ車に、コストでは普通鋼製車に、それぞれ後れを取っており、中途半端な存在になりかけていたことは否めません。
東急車輛製造の技術陣が軽量ステンレス車両の開発に着手したのは、まさにそのような状況を打開するためでした。
車体の軽量化には、骨組みからの見直しが必要となります。
現在であれば、CADなどのコンピューターソフトがあり、詳細な強度計算も容易にできますが、当時はコンピューターによる強度計算がやっと緒についた時期。ちょうど、昭和50(1975)年に米ボーイング社が開発した、有限要素法による立体構造物解析プログラム「ASTORA」を活用することができるようになり、東急車輛製造の技術陣は、このソフトを用いて強度計算・解析を行います。
しかし、そこは昭和50年代。現在のような詳細な強度計算はコンピューターだけでは無理です。そこで彼らは、計算によって得られた理論的な限界まで軽量化を行った車体を試作し、数十回にわたる荷重試験を繰り返しながら、最適値を割り出していきました。
昭和53(1978)年、彼らは遂に、実用に耐えうる軽量ステンレス車を製造することに成功します。ただし量産化はいまだ時期尚早であり、2両の試作車を作り長期的な試験に供することとされました。それが東急のデハ8400形(初代)です。
デハ8400の風貌は、見る者の度肝を抜きました。
その理由は、従来のステンレスカーにはあった波型模様(コルゲーション)がなくなり、数本のビードが走るだけになったこと。これによって、ステンレスカーとしてはかなりのっぺりした風貌になっています。ちなみにこの車両、車幅は8000系在来車と同じであるにもかかわらず、JRの広幅車体の車両のような裾絞りがありますが、これはステンレスの外板の歪みをできるだけ目立たないようにした結果だとされています。しかし、これによってデザイン的には優美さが備えられ、出来栄えは大変美しいものになっています。
デハ8400は、8000系在来車に比して、構体だけで実に6トン、全体の20%に及ぶ軽量化に成功し、構体重量はアルミ車と比肩するところまで来ました。
こうしてデハ8400は、2両が完成し、8000系編成に組み込まれて営業運転に供されるようになりました。コルゲーションだらけの在来車に1両だけ挟まれた、ビードだけの平滑な車体は、強烈な印象がありました。
デハ8400の使用は、問題なく推移し、次の量産型8090系の登場につながっています。
そしてデハ8400登場の2年後、昭和55(1980)年には、編成全体を軽量構造とした8090系が登場します。8090系は、日本初の量産型軽量ステンレス車。まさに「オールステンレス車の第2世代」と評してよい車両でした。車体構造はデハ8400とほぼ同じですが、車体裾を絞って上部にわずかながら後退角を付けた車体断面とし、「アオガエル」こと初代5000系とも類似する断面となりました。そして全面は大型のガラスをいっぱいに配した非貫通型。これは地下線に乗り入れることがなく、かつ固定編成として運用するため貫通路を設ける必要がなかったからですが、これによって前面展望が格段に向上し、運転台真後ろの「かぶりつきスペース」は、往年のモハ510の最前部のように、鉄道少年たちの特等席となりました。
さらに前面と側面には、東急のコーポレートカラーといってもよい鮮やかな赤色の帯が入れられ、これが全体の印象を引き締めていました。
8090系は、昭和55年に7連が1本登場し、のちに8連に増強された編成が2本増備され、最初の編成も増備車を組み込んで8連化されました。最終的に、昭和60(1985)年までに8090系は8連×10本が製造され、東横線の急行運用をほぼ掌握するに至っています。さらにその3年後、同形態で正面に貫通扉を設けた8590系(デハ8590・デハ8690)が増備され、既存の8090系編成から中間車を組み入れて8連5本を組成、中間車を抜かれた10本は5連化され大井町線に転じています。
さて、デハ8400ですが、その後の8000系列の増備により、1M方式のM車についてデハ8100ではない新たな形式が必要となったため、この1M車についてデハ8400が宛がわれ、当初のデハ8400(8401・8402)はデハ8200(8281・8282)に改められました。これは、デハ8400の電機品がデハ8200と同等であることが理由でしたが、その後8090系の増備が進み90番代から溢れて80番代を使用する必要が生じると、8281・8282の2両は、さらに既存のデハ8200の追番(8254・8255)に改められています。
さらに昭和61(1986)年には、8090系と同じ軽量ステンレス構造の車体を持つ9000系が登場しますが、こちらは側面が垂直となって裾絞りがなくなり、正面も切妻になっています。この「切妻正面」は、先頭部のスペースを無駄に使うよりは客室の拡大を図れという、当時の東急の幹部の意向が色濃く反映された設計だったのですが、後年列車の高速化が進むと、「列車風」により騒音源になることが問題視されるに至りました。9000系と同じ、切妻正面・垂直側面の車体は、その後の1000系・2000系(→9020系)にも採用されています。
9000系はVVVFインバーター制御を採用しており、「日本初の普通鉄道線でのVVVF車」の称号を得られるはずだったのですが、その称号はタッチの差で新京成の8800形に奪われてしまいました。国鉄サロ95900からタッチの差で「日本最初のステンレスカー」の座を奪った東急が、その28年後、「日本初の普通鉄道線でのVVVF車」の称号をタッチの差で奪われたのは、やはり何かの因果なのでしょうか。
ちなみに、8090系や9000系が製造されるようになってからも、8000系列の増備は続けられていました。勿論、軽量化の技術を反映して屋根肩部の処理などが変えられ、実際にいくばくかの軽量化がなされたのですが、編成全体の見た目を維持するためか、ビード車体ではなくコルゲーションのついた従来仕様の車体で製造されていました。
ともあれ、デハ8400から8090系製造で確立した、軽量ステンレス車の製造技術は、もはや東急車輛製造独自の技術といえました。そして米国バッド社も、東急車輛製造における軽量ステンレス車製造技術があくまで独自技術であり、自社と無関係であることを公式に認めるに至っています。
このようにして、米国バッド社の軛から自由になったステンレスカー製造技術。米国バッド社の縛りを受けなくなったことで、それまで限られた事業者しか採用していなかった、オールステンレス車を採用する鉄道事業者が、このあと増加していくことになります。
次回と次々回は、その増加の過程を、東武その他の大手私鉄と国鉄に分けて見ていくことにいたします。
-その8へ続く-
※ 当記事は09/03付の投稿とします。