1週間(ま)が開いてしまいましたので、今回は2本連続のアップといたします。
今回は前回の続きとして、目蒲線の「事実上の延伸」、郊外方面へのそれについて取り上げていきます。
郊外方面への延伸としては、埼玉方面と神奈川(港北ニュータウン方面)とがあります。
まず埼玉方面への延伸について。
埼玉方面への延伸は、都市交通審議会答申での「東京7号線」の延伸区間として構想自体はありましたが、ルートが明確に示されたのは、昭和60(1985)年の運輸政策審議会答申が最初です。これによって示されたルートを基に検討が進められました。その後、平成4(1992)年に当時の営団地下鉄と埼玉県などの出資により第三セクター「埼玉高速鉄道」が設立され、赤羽岩淵以北の延伸区間の建設・運営は、埼玉高速鉄道が担うことになりました。そしてその3年後に着工、さらに6年後の平成13(2001)年3月28日に赤羽岩淵-浦和美園間が開業しました。
当然のことながら、埼玉高速鉄道線は営団(当時)南北線と東急目黒線との相互直通運転を実施することとなり、埼玉高速鉄道の車両が目黒線の終点(当時の)武蔵小杉まで、東急の車両が埼玉高速鉄道線の終点浦和美園まで営業列車として入ることになりました。これにより、東急の車両が営業列車として初めて、埼玉県内に達しています。鉄道趣味界でのインパクトが大きかったのは、東急の車両が東武線内を営業列車として走るようになったことですが、こちらは埼玉高速鉄道の開業から2年後のことです。
ちなみに、埼玉高速鉄道線は、都県境となっている荒川の真下、国道122号線の荒川大橋のすぐそばを地中深いところで通過していますが、荒川を地下トンネルで越えている鉄道路線は、今のところ埼玉高速鉄道線のみとなっています。半蔵門線の押上-松戸間が開業したらわかりませんが。
埼玉高速鉄道線は、現時点での終点は浦和美園までとなっていますが、そこから先、岩槻・蓮田方面への延伸計画があります。しかしこれが実現するのは、管理人の個人的意見ですが、可能性はかなり低いのではないかと思っています。なぜかというと、管理人が岩槻から浦和美園までバスに乗ったことがあるのですが、そこで眺めた沿道の風景が、地元の方には大変失礼ながら、郊外というよりも「ド田舎」のそれだったから。つまり利用、採算性が見込めないということです。沿線開発の可能性を考えても、これからの日本は少子高齢化の進行で人口減少が進みますし、それ以外にも定住人口の都心回帰傾向も顕著になってきていますので、なおさら新規開発による定住人口の増加は望み薄なのではないかと思われます。
次に港北ニュータウン方面への延伸について。
こちらは、南北線ではなく「東京6号線」を、港北ニュータウンを経由して横浜線の中山まで延伸する計画でした。しかし、当初計画では、目黒から等々力を通り一直線に港北ニュータウンを目指すルートではなく、西馬込から港北ニュータウンを目指すルートでした。西馬込といえば、言わずと知れた1号線、浅草線の終点。にもかかわらず、これが何故「6号線」なのかというと、6号線の当初計画は三田で浅草線と合流して西馬込までの路線が「6号線」と称されており、西馬込の基地は浅草線と共用する計画だったから。つまり「6号線」は、当初計画では、浅草線と同じ軌間1435mmの標準軌の路線でした。それが東急・東武からの相互直通運転実施の要請により、1067mmの狭軌の路線に規格が変更されています。昭和47(1972)年の都市交通審議会答申において、6号線を目黒から等々力を経由して港北ニュータウンを目指すルートに変更したのは、同線の規格変更と、東急との相互直通運転計画が白紙化されたことが影響したものと思われます。
ちなみに、港北ニュータウンの造成当時、既に6号線の受け入れ準備は進められており、一部には6号線を通す高架橋の用地として確保された土地が残っているとのことです。この「6号線延伸線」は、横浜市としては地下鉄4号線(現グリーンライン)とは別に整備する計画で、当時の4号線は東横線とは日吉ではなく綱島で接続、鶴見まで達するルートだったようです。
しかし、目黒から等々力経由で南下するルートだと、東京都内は東急の「シマ」に手を突っ込むことになり、東急のシェア、特に東横線のそれがかなり蚕食されるであろうことは、容易に想像できます。見ようによっては、東急に相互直通運転計画を破棄された都交通局の「意趣返し」のように取れなくもありません。そこのところを考慮したのか、あるいは実際に東急側からの反発もあったのか、後の上記昭和60年答申において、清正公前(現白金高輪)-目黒間を南北線と共用、目黒以遠は東急目蒲線との相互直通運転を行うことに変更され、目黒以遠の独自ルートは破棄されています。
それでは港北ニュータウン側はどうなったのかですが、既に6号線の受け入れ準備が進んでいたことは前述のとおり。それなら、ということで横浜市が考えたのは、現在の4号線、つまりグリーンラインのルートで新路線を建設し、それを東急線とつないで相互直通運転を行おうという計画でした。これにより、独自路線ではないにしても、都営三田線(または南北線)-東急目蒲線・東横線-横浜市営の地下鉄路線(?)というルートで、港北ニュータウンから東京都心部への直通ルートが確保されることになりました。
しかし、横浜市の財政事情その他の理由により、相互直通運転の計画は放棄されてしまいます。4号線は建設費節減のため、都営大江戸線などと同じ小断面・リニア地下鉄の方式が採用され、現在の横浜市営地下鉄グリーンラインが誕生しています。この路線の開業は、平成20(2008)年の3月30日。同じ年の6月22日には、目黒線が日吉に達し、これにより、「6号線を港北ニュータウン方面に延伸する」という当初計画は、形が変わったものの実現することになりました。
グリーンラインの開業により、それまでは横浜市営地下鉄ブルーラインであざみ野乗り換え田園都市線、又は新横浜乗り換え新幹線か横浜線しかなかった東京都心部へのルートが、日吉経由での東急東横線又は目黒線でのルートも開かれることになりました。同時に、田園都市線の混雑緩和にも寄与するという副産物もありました。
グリーンラインが東急との相互直通運転が不可能な規格で建設されたのには、勿体ない面もあるにはありますが、東急はそのおかげで相鉄との相互直通運転計画にあたり、日吉駅の構造や運転系統が複雑になりすぎずに済みましたし、横浜市は横浜市で、グリーンラインの日吉-鶴見間延伸計画も進めやすくなったという面もありますので、悪いことばかりでもなかったように思います。もしグリーンラインが東急と同じ規格で建設されていたら、鶴見延伸は困難だったと思われますから。
以上が「目蒲線」の相互直通運転計画とその実現までの経緯です。東京都心部と埼玉県方面への直通は実現しましたが、横浜(港北ニュータウン)方面への直通は実現しなかったものの、形が変わってルートが確保されました。
次回は予告編とは多少内容を変え、目蒲線の近代化の過程を取り上げることにします。
-その7へ続く-
※ 当記事は02/18付の投稿とします。