-その3(№5234.)から続く-
前回と前々回は羽田を取り上げましたので、今回はもうひとつの東京圏の空港、成田空港(※①)を取り上げます。
実は成田空港には、当初計画から鉄道アクセスが盛り込まれていました。しかしそれは、現在のJR成田空港線でもなければ、京成の路線でもありません。
答えは「新幹線」。東京駅から「成田新幹線」がノンストップで結ぶ予定でした。
【当初計画の成田新幹線】
「成田新幹線」は、現在の京葉線東京駅の場所に東京駅ホームを設け、現在の京葉線にほとんど並行したルートで東京~千葉の湾岸部を走り、市川市のあたりで内陸に入り、その後は鎌ヶ谷市・印西市(※②)を通り、現在の「成田スカイアクセス」のルートで向かう計画でした。途中駅は、現在の千葉ニュータウン中央駅の付近に、車両基地と合わせて設ける予定でした。何故空港アクセスに新幹線かという疑問が湧きますが、最大の理由は東京都心部からの距離でしょう。今はそれほど言われなくなりましたが、かつて成田空港は「世界一遠い首都空港」という汚名を着せられていました。成田空港が東京からかくも離れた場所に建設された理由は、当時の航空管制技術では、新しい空港を建設しようとすれば既存空港から60km以上離さなければならない必要があったから。その他、例えば年間を通じて風の流れが安定していて突風が起きにくいことなども勘案されて現在の場所になったのですが、東京都心部から遠いので、それを埋め合わせるための新幹線ではなかったかと。あとは完全に推測ですが、成田空港が新たな日本の表玄関となるからには、日本の誇る「新幹線」でのアクセスで海外にアピールしようという狙いもあったものと思われます。
「成田新幹線」、一部では用地買収も済み、着工したのですが、結局「成田新幹線」が実現することはありませんでした。その理由は、成田空港建設に対する反対運動(所謂『成田闘争』)が猖獗を極めたこともそうですが、経由地となる東京都江戸川区・千葉県浦安市・市川市・船橋市などで強硬な反対運動が起きたから。折しも当時は騒音公害や「ゴミ戦争」の問題が勃発するなど、経済成長の負の側面が顕在化してきた時期でもあり、それ故に反対運動も盛り上がりを見せました。そして勿論、事業主体である国鉄の財政悪化の問題もありました。
結局、国鉄は「成田新幹線」建設を断念しています。
【京成】
京成が「成田空港線」を建設して(ただし当初の成田空港駅は現東成田駅)、成田空港開業と同時に空港アクセス輸送を開始した…というのは周知の事実ですが、以前の連載記事「参詣の道は世界への道へ」で言及したとおり(リンクをクリックすると同名の連載記事の案内ページに飛びます)、当初構想では空港アクセスのメインは新幹線であり、京成は「お呼びでない」状態でした。それでも何とか、ターミナルビルからやや離れた場所に駅の用地を確保し、乗り入れに成功しています。
しかし、当初計画の昭和48(1973)年開業はかなわず、そのため成田空港線も成田空港駅も、完成していながら放置される状態が続きました。鉄道施設は維持管理にも費用が掛かりますから、成田空港開港の遅れは、次第に京成の屋台骨を揺るがし始めます。
それでも何とか昭和53(1978)年に開港を果たすと、「スカイライナー」が本来の運用に就き、空港アクセス輸送に大活躍…と思ったら、そうはいきませんでした。その理由は、現在のようにターミナルビル直下に駅を作ることができず、駅からターミナルビルまでは連絡バスへの乗り換えを余儀なくされたことで、特にメディアから「不便さ」「不十分さ」が強調され、利用が伸びなかったためです。勿論、成田空港自体が、開港の経緯から警備が大変に厳しく(かつては『世界一警備の厳しい空港』といわれた)、航空便搭乗客か空港職員・関係者のみの入場しか認めていなかったため、送迎・見学の需要がほとんど見込めなかったことも影響しています。
それでもその後、海外旅行客の増加に伴って、定時性に優れた鉄道が評価され、京成によるアクセスも機能し始めました。当初は6連が空気を運んでいた「スカイライナー」も、昭和58(1983)年には8連化が実施されています。
転機は2回あり、1回目は平成3(1991)年。
この年、成田空港ターミナルビル直下への乗り入れが実現し、アクセスは劇的に改善されました。これは既にターミナルビル直下に完成していた「成田新幹線」の「成田空港駅」を転用したものですが、転用を可能にしたのは、当時の運輸相石原慎太郎氏の視察でした。氏は嫌がる官僚をねじ伏せて視察を強行、その様子をマスコミに取材させています。これをきっかけに「成田空港駅」施設の有効活用の機運が盛り上がり、京成とJRが乗り入れることになりました。京成はその前年に2代目となるAE100形を導入、こちらは当初から8連とされています。
なお、京成の乗り入れに伴い、旧「成田空港駅」は「東成田駅」と改称、現在に至ります。
2回目の転機は平成22(2010)年。
この年、北総線の印旛日本医大以遠を延伸する形で建設が進められていた新線が完成(成田スカイアクセス線)、「スカイライナー」がそちら経由に変更されました。同時に車両も新幹線以外では最速となる160km/h運転が可能な3代目を用意、日暮里-空港第2ビル間を何と36分で結んでいます。勿論、スカイアクセス線には一般車による料金不要の特急も運転、こちらは「アクセス特急」として運転されています。本線経由では20分ごとに、料金不要の特急が運転されていますので、成田空港へのアクセスは格段に充実しました。
【JR東日本】
平成3年の京成のターミナルビル直下乗り入れと同時に、乗り入れを果たしたのがJR東日本。勿論新幹線ではなく、在来線。成田線成田駅の久住方で新線を分岐させ、そこから空港へ乗り入れるもので、空港の用地直下ではJRと京成の単線が並ぶ形態となっています。
JR東日本はアクセス列車として特急「成田エクスプレス」を運転。その専用車両・253系は、3両を1ユニットとする、往年の急行型電車のような構成で、細かい輸送需要に対応することを可能にしていました。253系の機動性を生かし、「成田エクスプレス」は、成田空港-東京駅間を2編成併結で運転、東京駅で新宿方面と横浜方面に分割する運転形態となり、こちらも注目されました。勿論、空港行きは東京駅で併結されますが、これも限られた線路容量の中、始発駅を多様化することの一助となりました。
当初は3連1ユニットだった「成田エクスプレス」も、その後の乗客増に伴い、6連を1編成とし、あるいは3連×2の編成も多くみられるようになりました。そのため、平成22(2010)年、253系からE259系に置き換えたときには、E259系の編成単位を6連としています。
料金不要の列車は、1時間当たり1本ある成田発着の総武快速の運転区間を延長することで対応、同時に列車名を「エアポート成田」と名付けました。しかしこの名称は、あまり旅客案内には使用されないまま、今年3月のダイヤ改正で廃止されています。
JR東日本の場合、料金不要の列車が1時間に1本しかないことは、特に我孫子方面からの利用を取り込もうとする際に、ネックとなるように思われます。成田線我孫子発着の列車をそのまま成田空港まで延伸するか、「成田エクスプレス」を成田に停車させ、成田-空港第2ビル・成田空港間は乗車券のみで乗車できるようにするか、もう少し乗車券だけで利用できる列車を増やしてもいいような気がします。
やや駆け足になった感もありますが、これで成田空港の鉄道アクセスを概観してきました。
次回は、開港と同時に鉄道アクセスが用意された関西空港を取り上げます。
-その5へ続く-
※① 成田空港は開港当初「新東京国際空港」という名称だったが、当記事内では「成田空港」で統一している。
※② 当記事で経由地を表すときは、行政区画などは現在の自治体区分のそれに従う。