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5433.準特急とよばれて~185系物語 その5 200番代登場①~「新幹線リレー号」

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その4(№5425.)から続く

国鉄が昭和46(1971)年から建設を進めてきた、東北・上越新幹線。
当初は昭和51(1976)年度開業の予定でしたが、工期の遅れからそれもかなわず、特に大宮以南の建設は、反対運動が猖獗を極めたため、昭和55(1980)年段階で、大宮発着で暫定開業することが決定しました。
そこで、上野-大宮間には新幹線の連絡専用列車「新幹線リレー号」を運転することが決定されました。
そして、この列車に充当する車両として、「踊り子」に充当されている185系を新造投入することになりました。こちらは「踊り子」用の車両(0番代。以下185-0)とは、普通車・グリーン車の内装はほぼ同じですが、以下の点で異なっています。

① 耐寒耐雪装備を強化。
② 碓氷峠通過の際、補助機関車を連結することを想定し、台枠・連結器を強化(ただし補助機関車との協調運転機能はない)。
③ 車号を200番代として区別。
④ 編成構成は7連(グリーン車1両を組み込み)とする。これは新前橋電車区(当時)の165系急行編成と同じ構成。
⑤ 外装は0番代と同じ白地に緑帯だが、0番代のような斜めストライプではなく、窓下に緑帯を入れるオーソドックスなデザイン。

この185系200番代(以下185-200)、だいぶ185-0とは毛色が違うものであることがお分かりいただけるものと思います。
まず①②は運行線区からして当たり前の装備であり、①は臨時列車などで石打・小出方面への乗り入れに、②は碓氷峠を越えて軽井沢以遠への乗り入れに、それぞれ威力を発揮しました。また185-200は、新前橋所属の165系急行編成の置き換えも兼ねていたため、その編成と構成が揃えられました(④)。
さらに⑤の185-0とは異なるカラーリングは、東北・上越新幹線用の当時の車両(200系)とのデザイン的な連続性が考慮されたものとされています。なお、このカラーリングの変更により、0番代では車体の中心からずれて取り付けられていた車号の切り抜き文字が、他の車両と同じように車体の中央部に取り付けられるようになりました。
185-200は、185-0が「踊り子」として走り始めた昭和56(1981)年10月のダイヤ改正から僅か2か月後、同年の師走ごろから新前橋電車区(当時)に配属され、早くも同年の年末輸送の段階で、当時の急行「あかぎ」「ゆけむり」「なすの」などに充当されていた165系7連を置き換えていきました。
ここでちょっとした余談を。
当時の上野発着の中距離急行には、日光へ向かう「日光」も残っていましたが、これにも新前橋の165系が充当されていました。当時の鉄道趣味誌では、185系の普通車のアコモデーションは好意的に紹介されており、当時の東武特急の「DRC」1720系が時代がかってきたこととも相まって、「『日光』に185系を充当できれば、国鉄も対日光輸送でいい勝負ができるのではないか」といわれたことがあります。
「日光」は昭和57年11月の全国ダイヤ改正(57.11)で廃止されてしまいますが、それまでの間、185-200の充当があったのでしょうか? 色々文献やサイトを見ているのですが、管理人にはどうもわかりません。

185-200の投入にあたって、最大の難関は「国鉄当局と会計検査院との折衝」だったそうです。
会計検査院といえば、中央省庁その他国の機関による予算の無駄遣いの有無をチェックする機関ですが、会計検査院の主張は以下のような内容でした。

近い将来必ず、新幹線は上野まで達し新製した185系電車は余剰となる。なぜ現時点で余剰となっている485系電車を使用しないのか。

これに対する国鉄当局の反論は以下のとおり。

新幹線接続という一体感ある新しい車両で接続・輸送サービスを提供することは最低限必要である。
(485系の)一旦捻出した車両は、九州・北陸などの遠隔地である他地区の改造工事の種車や回送用に使う。
新製した185系特急電車(185-200のこと)は余剰になるわけではなく、新幹線開通後には近距離特急で使用する予定である。


以上のような主張を、国鉄当局は半年ほどかかって会計検査院に認めさせたといいます。
実際には皆様ご承知のとおり、185-200は、「新幹線リレー号」運転終了後も30年以上にわたって、首都圏の中距離特急などに活躍して来ましたので、このときの当局の主張は、結果として正しかったことになります。
185-200は、全112両(14編成)が新前橋電車区に投入されました。

「新幹線リレー号」については、以前に東日本の新幹線を取り上げた連載「東日本に針路を取れ」で言及したことがありますので(該当記事は こちら)、運転開始の経緯や列車としての性格など、詳細はそちらに譲りますが、昭和57(1982)年6月23日の東北新幹線暫定開業の際に、7連を2本つないだ14連で「新幹線リレー号」がデビューしました。しかし、このときは「新幹線リレー号」を全列車185系で賄うことはできず、下りの1本(3号)は115系、上りの最後の1本(28号)が、当時運転が継続されていた急行「まつしま」などに充当されていた、仙台の455系急行編成が充当されていました。
このような体制は僅か5か月で終わりを告げ、「57.11」の上越新幹線開業に伴って、東北新幹線も本格的に増発が図られました。併せて「新幹線リレー号」もパターンダイヤに組み込まれ、全て185-200での運転に統一されています。
そして「57.11」から、185-200は165系との共通・併結運用を解消し、特急として運転されるようになりました。
「57.11」時点での、185-200が充当される特急は以下のとおり。

・    急行「ゆけむり」→特急「谷川」(上野-水上) ※同名の急行は残存
・    急行「草津」→特急「白根」(上野-万座・鹿沢口)※同名の急行は残存
・    急行「あかぎ」→特急「あかぎ」(上野-前橋) ※残存した急行は「はるな」と改称

ただし東海道の「踊り子」とは異なり、「57.11」の時点で全ての急行が特急化されたわけではなく、一部は急行として残存し、165系が継続使用されました。またこのとき、日光発着の「日光」が廃止され、国鉄による日光直通の優等列車が廃止されています。

7連を2本つないだ14連という大編成を組み、「新幹線リレー号」として上野-大宮間を颯爽と駆け抜けた185-200ですが、所詮は新幹線が上野に来るまでの「つなぎ役」。新幹線上野開業が昭和60(1985)年3月14日と決まり、国鉄はこの日に全国ダイヤ改正を予定しました。
この改正により、185-200の運命が大きく変わり、また国鉄の特急政策も変わることになります。
次回はそのあたりのお話を。

-その6に続く-


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