-その3(№5621.)から続く-
東京五輪開催を前に、都心部の大量交通機関として地下鉄を整備する。そのような機運が盛り上がりました。
東京五輪開催決定時、東京の地下鉄は現在の銀座線と丸ノ内線の2路線しかなく(当時は新宿-荻窪が「荻窪線」として別路線扱いだった)、現在のメトロ・都営合わせて13路線もある充実ぶりとは隔世の感があります。
このころ、東京都心部の交通はその多くを路面電車(都電)とバスに負っていましたが、自動車が増えすぎて渋滞が悪化、それを見かねた東京都は、1959年に都電の軌道敷に自動車を受け入れてしまいます。これによって渋滞が緩和され、都電も走りやすくなるのでは、という目論見でしたが、最初のころこそ円滑に流れるようになったものの、自動車の増加のペースが速すぎて、今度は都電の身動きが取れなくなり、都電の定時性が失われてしまいました。これはバスも同じで、渋滞する都心部を思うように走れない状態に陥ってしまいます。
地下鉄網の整備は、このような道路交通の破綻から出てきたものですが、整備が加速したのは、五輪という明確な目標が提示されたことが大きな理由です。
東京五輪開催前後に整備された路線としては、以下のものがあります。
・ 五輪開幕直前に全線開業したもの…日比谷線
・ 五輪開幕前に開業したが全線開業は間に合わなかったもの…都営浅草線
・ 開業自体が五輪開幕に間に合わなかったもの…東西線
以下順次見ていきましょう。
【日比谷線-何とか五輪開幕前に全線開業】
日比谷線と、最後に挙げる東西線は営団地下鉄が建設・運営する路線です。
日比谷線の計画自体は非常に古く、既に1925年に内務省において「東京都市計画高速度交通機関路線」の2号線として、目黒-南千住間が計画路線として策定されていました。その後、1941年の帝都高速度交通営団設立により、この2号線の免許が営団へ譲渡されます。さらに曲折を経て、現在の路線の形態が確定したのが1957年。この年5月には建設計画が発表され、経由地を確定させ(東急側の接続駅を祐天寺から中目黒に変更)、さらに12月には乗り入れ相手となる東急・東武との相互直通運転に関する覚書を取り交わしています。
そして1959年に着工すると、あとは矢継ぎ早に開通区間を伸ばしていきます。
1961.3.28 南千住-仲御徒町間開業
1962.5.31 南千住-北千住間と仲御徒町-人形町間開業、同時に東武伊勢崎線と相互直通運転開始
1963.2.28 人形町-東銀座間開業
1964.3.25 霞ヶ関-恵比寿間開業
1964.7.22 恵比寿-中目黒間開業
1964.8.29 東銀座-霞ヶ関間開業、日比谷線全線開業、同時に東急東横線と相互直通運転開始
というわけで、何とか東京五輪の開幕に間に合いました。
日比谷線で面白いのは、何といっても分割(分裂?)開業。つまり最後に開通した区間が、東銀座-霞ヶ関間だったわけですが、その理由は、高速道路との交差部分の工事に難儀したことと、銀座総合駅(丸ノ内線の西銀座駅と銀座線の銀座駅を統合する計画だった)の仕様の確定に時間がかかったことでした。
【都営浅草線-五輪前には開業したものの全線開業は…】
これまで東京の地下鉄は帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が建設・運営してきましたが、初めて東京都が建設・運営することになった路線。もともと東京都は、前身の東京市のころから地下鉄建設・運営には並々ならぬ意欲を燃やしており、営団地下鉄だけでは地下鉄網の整備が追い付かないとして、当時の運輸省の指示もあり、1957年に東京都は、現在の路線の免許を受けています。これが現在の都営浅草線。当時は「都営1号線」と称していましたが、開業順序としては3番目なのになぜ「1号線」と称していたかというと、都市計画鉄道は品川から順に1、2、3、と付番していたからです。ちなみに2は日比谷線、3は銀座線です。もっとも、この原則が守られていたのは8号線(有楽町線)の計画が出現するころまでで、その後の9号線(千代田線)あたりからは守られなくなってしまいました。これは、既存路線のバイパスルートを確保するために新路線を増やしていったからです。
さて、都営浅草線、もとい都営1号線は、当初から京成・京急との相互直通運転を予定しており、京成はそのために全路線の改軌(1372mm→1435mm)を実施しています。
路線建設は1958年に着工。工事は京成側から進められ、その2年後の12月4日、都営1号線押上-浅草橋間が開業、同時に京成との相互直通運転を開始します。このように、都営1号線は、着工、第1期開業、相互直通運転の開始のいずれも、日比谷線に1年ないし2年先んじていました。
その後は以下のような推移をたどります。
1962.5.31 浅草橋-東日本橋間開業
1962.9.30 東日本橋-人形町間開業
1963.2.28 人形町-東銀座間開業
1963.12.12 東銀座-新橋間開業
1964.10.1 新橋-大門間開業
…とこのように、こまめに延伸を繰り返していったのですが、期待された全線開業と京急との相互直通運転は、東京五輪には間に合いませんでした。
その要因はいろいろありますが、最大の理由は、当時東京都が建設を計画していた6号線(現都営三田線)について、当初は1号線と共通の規格で建設し馬込の車庫も共用する計画だったものが、東急と東武が6号線への乗り入れを表明したため、路線・車両規格に関する難問が持ち上がり、泉岳寺以南の路線規格が確定できなかったことです。その他、建設中の陥没事故などもありましたが、都営浅草線の場合は、足を引っ張る外的要因が多すぎたのが残念なところです。
【東西線-五輪には間に合わず】
東西線に当たる路線の計画は既に戦前からありましたが、経由地などの選定に曲折を繰り返した末、営団地下鉄は1960年に中野-東陽町間及び分岐線の大手町-下板橋間(分岐線は後に都市計画6号線、現在の都営三田線の母体になっている)の建設計画を決定、その翌年に着工します。その後、分岐線の免許が東京都に譲渡され、さらに東陽町以遠は浦安・船橋方面へ延伸することが決定され、現在の東西線の路線が確定しました。
しかし、東西線の開業は、第1期開業区間の高田馬場-竹橋間の開業が、1964年12月23日と、東京五輪には間に合いませんでした。
東京五輪から3年後の1967年、東京都は都電の全廃を決定、1973年までに段階的な廃止・撤去に着手します。最後に残ったのが現在の荒川線でした。当時日本国内を席巻していた、路面電車は時代遅れという空気に乗っての全廃でしたが、それではこれによって道路渋滞が改善されたかといえばそんなことはなく、都電に代わって走り始めた都営バスも、思うように走れない状態が長く続いたのは、なんとも皮肉なことでした。
次回は、駒沢オリンピック公園へのアクセスルートとなる、東急玉川線と東急バスを取り上げます。
-その5へ続く-
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5625.五輪と鉄道 その4 1964年東京五輪③~地下鉄網の整備
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