現在、地下鉄博物館で「早川徳次 生誕140周年記念展」を開催していますが、管理人も見て参りました。
内容はネタバレになるので詳しくは申しませんが、何よりも圧巻だったのが展示物。ご本人の名刺、東京地下鐡道の会社としての設立趣旨書、発起人リスト…このあたりは予想の範囲内。貴重だと思ったのは当時の旅券(パスポート)。一番驚いたのは遺言状が展示されていたこと。よくこんなものが残っていたと思います。
そして一点だけ内容を申し上げれば、建設工事に必要な資金の調達について、外資の導入を目論んでいたことが驚きでした。米国のファンドから導入しようとしていて、話もほぼまとまっていたのですが、大正12(1923)年の関東大震災発生によりおじゃんに。もし関東大震災が起こらず、米国からの資金調達が実現していたら、地下鉄の路線は史実よりも早く開業していたでしょうが、独立経営を維持できたのか、そしてその後戦争に突入していった際にどうなってしまったのか、疑問は尽きません。結果論ですが、米国からの資金調達の話は潰れてよかったのではないかと思います。もっとも、そのせいで、早川は資金調達には最後まで悩まされ続けましたが。
館内にはこのとおり、「記念展」の垂れ幕と、東京高速鐡道の100形(カットモデル)が並んでいます。ですからこのように、同じフレームに収めて写真を撮ることができるわけでして。
泉下の早川はこの並びに何を思う
100形は言うまでもなく、早川とバトルを展開した五島慶太が設立した東京高速鐡道の車両です。
車両丸ごとではなくカットモデルになっている
かつて銀座線に1000系が投入される際、最終の2編成が「レトロ仕様」になるというアナウンスがありました。当時の管理人は、1編成を東京地下鐡道仕様、もう1編成を東京高速鐡道仕様にしてほしいと願ったものでしたが、蓋を開けてみれば皆様ご存じのとおり、2編成とも東京地下鐡道仕様。
そして東京メトロは、今回の記念展でもわかるように、早川をフィーチャーしている。
ということは。
東京メトロとしては、自社の正式な前身は東京地下鐡道であると認識しているのでしょう。あくまで東京高速鐡道は「鬼っ子」であるということです。だから1000系レトロ仕様車を2編成とも東京地下鐡道仕様にしたのではないかと思います。
最後に。早川が作った地下鉄に最初に導入された車両に挨拶しておきましょう。
1000形
あえて説明の必要が無い車両ですから、ここで来歴を申し上げることはしません。ただし、現在の銀座線の1000系は、この車両をリスペクトした結果として生み出された車両であることは、付け加えておこうと思います。
こちらは丸ノ内線の300形。戦後初の新路線、そして「帝都高速度交通営団」、即ち営団地下鉄として最初の新路線でもある丸ノ内線に初めて投入された車両です。
「東京の地下鉄」のイメージを決定づける車両だった
現在の丸ノ内線の2000系が、アルミ車体でありながら赤色のラッピングを纏っているのは、この車両に対するリスペクトが根底にあることは想像に難くありません。ただリスペクトというなら、形式名は2000系ではなく「300系」にしてほしかったと思っています。今300系というと、鉄道趣味界では初代のぞみのあれか(^_^;)
この記念展、まだ開催されておりますので、地下鉄の歴史に関心のある方は是非どうぞ。
【文中敬称略】
【取材日 令和4年2月26日】