-その2(№2085.)から続く-
昭和20(1945)年8月15日、日本のポツダム宣言受諾により戦争が終わりました。
しかし、空襲によって車両を破壊されたのももちろんですが、その間にも技術者の応召などにより、電車が満足な整備を受けられないままに酷使され続けていたため、残存している車両はどれもボロボロ。52系流電も43系半流も例外ではなく、車齢10年未満とは思えない状態にまで悪くなっていました。
そのような中でも復興は着実に進みましたが、「急電」の復活は昭和24(1949)年4月と、終戦から4年近く経過してのこととなりました。しかも、運転区間・本数も京都-大阪間に縮小、朝夕ラッシュ時の計2往復という、戦前とは比べものにならないほど、ささやかな規模でした。
そこまでずれ込み、かつ小規模な運転になってしまったのには、当然訳がありまして、
① 当時の43系には座席撤去改造を受けた車両が多く、座席を復旧させる必要があったが、それに大変苦労した(実際には63系を投入して捻出した43系を整備している)。
② 国有鉄道の最重要幹線であるが故に、連合軍専用列車や長距離列車などの運転が優先され、人的・物的資源が限られた状況下では「地域輸送の速達運転」を後回しにせざるを得なかった。
③ 限られた人的・物的資源の下では、地域輸送に関しては、「急電」よりも普通電車の復旧を優先せざるを得なかった。
ということです。
昭和24年の時点で復活した「急電」は、一般型モハ43系の4連で、戦前には存在した半室2等車は復活しませんでした。
同年6月には、国有鉄道は「公共企業体」の日本国有鉄道に移行、同時に「急電」の運転区間が京都-神戸間に拡大されます。同時に所用となる編成数が増え、52系広窓車編成がレストアされ、「急電」運用に復帰します。ただし、外板塗色は従来のクリーム+マルーンではなく、濃淡青色のツートンカラーに窓下に赤い帯を巻いた、世にもド派手な塗装となりました。この塗装は、当時の愛好家から「アイスキャンデー塗装」といわれています。
続いて同年9月、「急電」は京都-神戸間30分ヘッドとなり、さらに所要編成数が増加します。そこで、52系狭窓車(アイスキャンデー塗装)や43系半流も復帰させました。
ただし、一部編成は半室2等車のサロハ66を組み込んだものの、3等車扱いのままで2等車としての運用はなされず、「急電」への2等車復活はなりませんでした。そういう意味では、完全な形で戦前の姿に戻ったとはいえない面もあります。
「急電」運用に戻った52系や43系半流の活躍も、実は長続きはしませんでした。
昭和25(1950)年夏、当時東海道線東京口に投入されていた「湘南電車」80系の投入が決まり、同年8月から9月にかけて4連7本が登場しました。編成は両端クハ86、中間にモハ80を2両挟んだもので、期待された2等車連結はかないませんでした(※)。しかし、外板塗色はいわゆる「湘南カラー」ではなく、窓周りクリーム+窓上下マルーンのツートンカラーとされ、湘南カラーに比べると、ぐっと落ち着いた色になっています。このツートンカラーは、配色こそ逆ですが戦前の52系を彷彿とさせるもので、当時の愛好家からもシックな色だとして人気が高かったとか。
※ 実は、80系には半室2等車の構想があった。サハ87とサロ85を足して2で割ったような合造付随車で「サロハ89」という形式まで与えられ設計図も完成していたのだが、急遽製造段階で取りやめられた。もしこの車両が世に出ていたら、関西用として数両投入されていたかもしれない。
80系による「急電」の運転は同年10月のダイヤ改正より始まり、52系や43系半流は阪和線へ転属し、同線で使用されることになりました。その後、彼女たち一族は、付随車が43系従来型とともに東京(横須賀線)へ転属し、電動車は飯田線へ転属、退役まで大事に使用されています。モハ52(→クモハ52)は昭和53(1978)年まで使用されましたが、43系半流のクモハ53007と008は、昭和58(1983)年の飯田線完全新性能化まで活躍しました。
「関西急電」の人気車両を置き換えた80系でしたが、利用客には絶大な支持を受けました。その理由は、デッキ付きで静粛性が保たれた室内、その後の急行用車両の標準となる段つきモケットを備えた座席であったこと(車端部を除く)など、43系などとは比べものにならないほど快適な居住性を誇っていたことです。
そのためか、「関西急電」の乗客も増え、また経済的な復興も伴って人の往来も多くなり、それに応えるべく昭和26(1951)年にダイヤ改正を実施、80系「急電」にはT車が1両増結されて5両編成となります。同時に逆三角形の「急」ヘッドマークも取り付けられ、京阪神の看板列車としてのステータスを整えた観があります。
「関西急電」はしばらくこの体制で推移しますが、その後、東海道線の全線電化が具体化すると、当時既に湘南カラーの80系が名古屋地区まで達していたことや、運用が広域化することなどから、オリジナルカラーを取りやめて順次湘南カラーに改められました。「急」マークも昭和31(1956)年の全線電化完成までには取り外されています。
そして翌昭和32(1957)年、名古屋-大阪間の準急「比叡」が80系電車化されることになりましたが、当時の準急は「準急行料金」というエクストラチャージを徴収していたことから、それを徴収していない「急行」が存在するのはおかしいということで、このころまでに「急行」の呼称を止め「快速」に改めています。ただし編成は長くなり、5連を2本併結した10連も見られるようになります。
昭和33(1958)年には電化区間が姫路まで延び、80系の運転区間もそこまで延伸されることから、80系の増備車として「全金属車」300番代も入り、さらに3年後には待望の1等車(前年に3等級制から2等級制に改められたため、それまでの2等車)サロ85が80系編成に順次連結され、関西の「快速」に昭和17(1942)年以来、19年ぶりに待望の優等車が復活しています。ちなみに、普通電車の優等車はクロハ59や69が活躍していましたが、こちらは快速とは逆に昭和37(1962)までには廃止されています。このころになると、80系の基本編成も7~8連とさらに長くなりました。
しかし、80系の「デッキ付き2扉」のスペックは、乗客が増え続けた関西圏でも「乗降性の悪さ」というネックになってしまいました。そのため、昭和39(1964)年から3扉セミクロスの113系が投入されるようになり、翌翌年から1等車を1両組み込んだ編成が投入され、80系に取って代わるようになります。この置き換えが終了するのが昭和43(1968)年10月のダイヤ改正でした(ただし岡山地区からの80系乗り入れ運用は残存)。
この間、「急電」→快速の利用者は増加の一途をたどったものの、停車駅も増加してしまい、さらなるスピードアップを模索するようになります。そこに、快速よりも上位の列車を運転する必要が生じるのですが…そのお話はまた次回。
-その4に続く-
↧
2093.疾き者よ その3 前史③ 戦後の80系登場から新快速前夜まで
↧