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3726.客車急行・最後の40年 その7 北海道の客車急行の14系化

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その6(№3719.)から続く

 

国鉄が利用者の減少から「減量ダイヤ改正」を余儀なくされ、それが昭和55(1980)年10月のダイヤ改正につながった…ということは、前回言及したとおりです。

その落ち込みが最も激しかったのが関西-九州間で、既に昭和53(1978)年10月のダイヤ改正で「あかつき」「明星」の削減、急行でも「阿蘇」「くにさき」の大阪-門司間併結(実質上の1往復廃止)の措置が取られました。その翌年には、「夜行列車全廃論」が当時の政治家から唱えられるなど、国鉄を取り巻く環境は厳しさを増していきました。流石にこれは暴論に過ぎるということで、程なく撤回されていますが。

「阿蘇」「くにさき」の併結化も虚しく、関西-九州間急行の乗車率は好転せず、遂に昭和55年10月のダイヤ改正で、「雲仙」「西海」「阿蘇」「くにさき」が軒並み廃止の憂き目に遭うことになりました。これにより、関西-九州間の定期客車急行は全廃されてしまいます。

今にして思えば、同じ14系寝台車を使って、急行列車を寝台・座席の混成にして残した上で特急の方を廃止すればよかったのではないかと思いますが、このころの関西-九州間の旅客流動の落ち込みは、もしかしたら想像を絶するレベルだったのかもしれません。

上記関西-九州間の夜行以外では、函館-札幌という夜行としては短距離であったにもかかわらず「フルセット」編成の威容を誇っていた「すずらん」1往復が廃止され、臨時に格下げされています。この年、北海道ではダイヤ改正と同時に千歳空港駅(当時)を開設し、航空機で北海道に出入りするお客を取り込むという「現実路線」に舵を切っていますが、その理由には東京-札幌間の旅客の鉄道利用シェアが僅か5%まで激減してしまったことがあります。「すずらん」廃止も、そのような中で乗客が減少したことが理由でしょうが、見方を変えればこのような「現実路線」への方針転換を象徴する出来事と言えそうです。

なお、当時は函館-札幌間の夜行は小樽経由の普通列車があり、夜行列車自体は残っていました。ただしこの列車、荷物列車としての2桁の列車番号を名乗り、荷物車・郵便車に座席車が3~4両連結されていただけだったので、純粋な函館-札幌相互間の夜行需要は、観光シーズンなどを除けば、その程度だったのかもしれません。

 

さて、この改正で「雲仙」「西海」「阿蘇」「くにさき」に使用していた14系客車が浮きました。

そこで国鉄当局はこの14系客車をどうしたかというと、耐寒耐雪性能を強化した仕様に改造し、北海道に転用することとしました。

改造内容は暖房機能の強化(これによって、電源車スハフ14の給電能力が6両から4両に減少)と客用扉の変更(折戸から引戸へ、凍結防止にドアレールヒーターも装備)、それと10系客車など一般型客車との混成を可能にしたことなどで、翌年から「ニセコ」に投入されています。

「ニセコ」は14系置き換えに伴い、グリーン車の連結こそ廃止されてしまいましたが、普通車に限っていえば、冷房のないボックス席のスハ45系に比べれば、冷房付き簡易リクライニングシートの14系は飛躍的なサービス向上と言えました。

このころはまだ、郵便・荷物車の継走の必要があり、「ニセコ」を客車のまま残しておいたのもそれが理由だったのですが、流石にスハ45系ではサービスレベルに難があったのでしょう。

なお、この年の10月には石勝線(千歳空港-追分-新得)が開業し、特急「おおぞら」などとともに、夜行急行「狩勝」も石勝線経由に変更され、愛称を「まりも」と変更していますが、使用車両・編成内容とも従来どおりでした。ちなみに、改正前には急行「狩勝」は夜行を含め4往復ありましたが、夜行含め2往復が石勝線経由に変更され「まりも」と改称、従来の滝川経由のルートには2往復が残りました。

 

さて、さらにその翌年、昭和57(1982)年は、定期客車急行列車が全て20系以降の所謂「新系列客車」に統一され、サービスレベルが飛躍的に改善されるのですが、全国的な動きは次回に譲るとして、北海道での置換えの状況を取り上げます。

昭和57年11月のダイヤ改正で、「利尻」「大雪」「まりも(←狩勝)」の3系統の夜行急行は、それまでの一般型客車から、寝台車も含めて14系客車に置き換えられることになりました。しかし、ダイヤ改正実施の時点では寝台車の改造が間に合わず、とりあえず座席車だけを14系に変更することとし、寝台車は当面の間10系寝台車の連結が継続されました。14系座席車は、北海道向け改造の一環として一般型客車との混用を可能にする改造が施されていましたが、その機能がここで役に立ったことになります。

座席車が14系に置き換えられ、居住性が飛躍的に向上したのはいいのですが、やはり他系統の列車と同様、グリーン車の連結は廃止されてしまいました。このころになってくると、グリーン車の存在意義が中途半端になっていたのと(運賃・料金を合計すると、グリーン車利用とB寝台車利用はそれほど変わらないか、前者の方が高額になる)、グリーン車自体が昭和20年代製造のスロ54とか鋼体化改造車のスロ62であり、老朽化・陳腐化が著しくなってしまったため、連結廃止も仕方のないことではありました。しかし、趣味的見地からいえば、編成のバラエティーが失われるということでもあり、その点では残念なことでした。

寝台車の置き換えが実現したのは、座席車を14系に置き換えた翌年の、昭和58(1983)年6月。これによって、全ての定期客車急行列車から、10系寝台車の連結がなくなっています。同系は普通夜行列車の「ながさき」「山陰」に残るのみとなりました(『からまつ』は昭和55年10月のダイヤ改正で廃止、『はやたま(←南紀)』はこの時点では列車としては存続していたものの、前年の昭和57年5月に寝台車の連結がなくなった)。

ただ、14系の北海道転用に際しては、寝台車はB寝台車のみが改造され、A寝台車は対象とされませんでした。そのため、10系寝台車のときはA寝台車を連結していた「まりも」は、寝台車の14系置き換えと同時に、A寝台車を失うことになりました。これによって、北海道からA寝台車が消えますが、その復活は14系寝台車置換え完了の5年後、青函トンネルの開業で寝台特急「北斗星」が運転されるようになってからです。

 

なお、昭和55(1980)年10月に定期としては廃止された函館-札幌間の「すずらん」ですが、その後も年末年始や観光シーズンなどに、14系客車の予備車を活用した臨時列車として運転され、それなりの乗客を掴んでいました。しかし、定期列車時代の「フルセット」の威容からは程遠く、座席車と寝台車を合わせても4~5両編成という、非常にささやかなものでした。それでもこの臨時夜行「すずらん」、青函トンネル開通直前までは、年末年始や観光シーズンには必ず運転されていました。

 

さて、このように北海道の客車急行は14系に置き換えられました。

次回は、その他の系統における新系列客車への置換えの過程を取り上げます。

 

-その8に続く-


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