Quantcast
Channel: さすらい館
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4315

3915.485系・その栄光の生涯 その6 第1期黄金時代②~「白鳥」で本領発揮

$
0
0

その5(№3907.)から続く

 

485系の本当の大躍進。それが昭和47(1972)年10月2日のダイヤ改正です。
この改正で、485・489系の充当列車はさらに増えました。

 

① 「白鳥」(大阪-青森)をキハ80系から485系に変更。
② 「いなほ」(上野-羽越線経由秋田・青森)をキハ80系から485系に変更、増発。
③ 「やまびこ」「ひばり」増発。一部に青森所属の編成が充当される
④ 「ひたち」(上野-平・原ノ町・仙台)をキハ80系から485系に変更、増発。
⑤ 「雷鳥」「つばめ」増発。
⑥ 「白山」1往復増発(11月実施)
⑦ 「はと」全列車、「しおじ」1往復を除き181系から485系に変更(12月実施)。

 

この改正から、日本海縦貫線を全線走破する「白鳥」が、それまでのキハ80系から485系に置き換えられ、同時に下りは1時間、上りは42分の時間短縮がなされます(①)。この置き換えによって、世界最長距離の気動車列車であった「白鳥」は、世界最長距離の電車列車として勇名を馳せることになります。
この改正で意義深いのは、日本海縦貫線が全線電化され、大阪から青森まで電車列車・電気機関車牽引列車が直通できるようになったことですが、それも485系があってこそ。なぜなら、「白鳥」の運転区間は、大阪から順に直流1500V→交流20000V60Hz→直流1500V→交流20000V50Hzと、目まぐるしく電化方式が変わるのですが、交流電化区間の異なる電源周波数に対応できるのは485系しかないからです。60Hz専用の481系では大阪を勇躍出発しても、村上から先には走れませんし、483系だったら青森から出発しても、糸魚川の手前の梶屋敷で走行不能になってしまいます。
つまり「白鳥」への充当は、異なる電源周波数の電化区間を直通できる485系の性能を、本当の意味で生かした初めての列車ということになります。485系は、登場して4年後に、本来の性能を生かした列車に充当されることになりました。


そして「白鳥」の編成ですが、以下のとおりの編成とされました。

 

←新潟 TcTsTsM'MM'MTdM'MM'MTc 青森・大阪→
(新潟で進行方向が変わる)

 

この13両編成は、「白鳥」のためだけに用意された特別編成というべきもので、電動車ユニット4組にグリーン車2両という、485系の最長編成となっています。しかしこの編成だと、大阪-新潟間では向日町の485系と電動車ユニットの向きが逆になります。

 

そして「白鳥」同様キハ80系で運転されていた「いなほ」も485系に置き換えられ、こちらは「白鳥」の13連からグリーン車1両を抜いた12連となっています(②)。
同時に「いなほ」は1往復増発され、秋田・青森発着各1往復となりました。

 

←上野 TcTsM'MM'MTdM'MM'MTc 秋田・青森→

 

「いなほ」用の12連は、東北特急にも充当されることになり、「やまびこ」の全部と「ひばり」の一部が、この編成に置き換えられています(③)。

 

ところで、「白鳥」「いなほ」「やまびこ」「ひばり」用の485系は、それまで同系の配属がなかった青森運転所(当時)に配属されました。勿論新造車を中心に配属されましたが、当初はボンネットスタイルの先頭車、初期型の電動車ユニットが配属されていました。それが、翌年の1月までに先頭車は貫通型の200番代、電動車も200番代ユニットに差し替えられています。これは同じ昭和47年度に485系の仕様変更が行われたことが一つの理由ですが、このため「白鳥」「いなほ」の電車化直後は、ボンネットスタイルの先頭車が両列車の先頭に立っていたこともありました。

 

それでは青森の485系についての素朴な疑問を。

 

1 なぜ貫通型先頭車を配属した?
2 なぜこの時点で「はつかり」を485系にしなかった?
3 なぜ「白鳥」を担当した? 向日町ではダメだったのか?

 

ざっとこんなところですが、まず1から。
 

これは、豪雪地帯を走る列車に貫通型は不要・不適だったのでは、ということです。実際、200番代の先頭車は、使いもしない貫通扉から隙間風が容赦なく運転席に入り込み、運転席がボンネットスタイルに比べて非常に寒かったそうです。中間車を200番代ユニットに取り換えたのはよいとしても、先頭車はボンネットスタイルのままでよかったのでは…。もっとも、これには東北系統の特急の分割併合を計画していたこととの絡みがあるのは、前回触れたとおりですが、それなら貫通型先頭車こそ仙台に配属すべきだったのではないか、ともいえるわけで、真相は不明です。

次に2。これは、青森所属の485系の出し入れができるのが「いなほ」しかなかったことから、もう一つの出し入れのルートを確保しておくべきだったのでは、ということです。これは、仙台の車両基地としてのキャパシティの問題、青森の583系の運用の問題、それらがあったものと思われます。もっとも、翌年「はつかり」に485系が充当されるようになり、これは青森の車両でしたから、この問題は国鉄当局も分かっていて、だからこそ翌年に485系の「はつかり」を増発することで対応したのかもしれません。

最後の3ですが、これは管理人も不思議でした。気動車時代の「白鳥」も向日町の担当でしたし、後年、平成9(1997)年から平成13(2001)年の列車廃止まで担当したのも向日町(現京都総合車両所)。だから向日町でも何の不都合もないはず…と思っていたら、ありました。向日町には電動車ユニットに481系を組み込んだ編成が多数あり、予備車も共通化している状態だったこと。これでは、もし何かの手違いで481系の電動車を組み込んだ編成を「白鳥」に充当してしまったら、村上から先が走行不能になります。それなら限定運用を組めば…と考えてしまいますが、当時の向日町の車は、北陸と山陽~九州の両系統で八面六臂の活躍をしており(と言えば聞こえはいいが、実態は極限までの酷使)、しかも489系の「白山」を特別扱いしていましたから、そこに加えて「白鳥」までを特別扱いできる余裕はなかったのでしょう。だからこそ当局は、最初から485系で固めた青森で「白鳥」を担当するようにしたのだと思われます。

 

次回は、今回の記事でフォローしきれなかったところと、その後の3年間を見ていこうと思います。

 

-その7へ続く-


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4315

Trending Articles