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3945.485系・その栄光の生涯 その9 北海道初の電車特急「いしかり」の蹉跌

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その8(№3934.)から続く

 

今回は、「栄光の生涯」と銘打っている485系の中で、ほとんど唯一と言っていい「挫折」ないし「蹉跌」を取り上げることにいたします。

 

485系が全国に特急網を広げていったのは、これまで述べてきたとおりですが、その過程で、これまで電車特急の無かった北海道にも、電車特急を走らせようという機運が盛り上がって来ました。

そこで、当時の国鉄は、既に北海道で十分な実績を積み重ねていた711系電車をベースに、北海道用に特化した特急型電車の設計に取り掛かっていたのですが、従来型主変圧器の絶縁・冷却に使われていたPCB油の毒性が判明し、油種変更に対応する必要が生じ、計画は一時頓挫してしまいます。しかし、沿線と北海道総局の期待が強いこと、無害なシリコン油を使用する主変圧器が開発されたため、北海道向けに485系300番台をベースにした車両を暫定的に投入する事が決定しました。これが485系の1500番代です。

1500番代と従来型との差異は以下のとおり。

 

1 運転区間が短距離(札幌-旭川)のため、車種は先頭車と中間電動車ユニットのみ。中間電動車ユニット2組と両先頭車の6連を組む。

2 モハ484は専務車掌室付き(600番代と同じ)。

3 先頭車の屋根上の前照灯は降雪を考慮して2灯に。

4 客用扉の凍結防止のためドアレールヒーターを装備。

5 北海道特有のパウダースノーの侵入を防止するためシーリングを強化。

 

1500番代は昭和49(1974)年に全22両(6連×3本、先頭車2両と電動車ユニット1組)が落成し、この年から北海道で走り始める予定でした。しかし、このころはSLの全廃間近な時期だったためか、北海道でも労使対立が厳しく、電車特急のデビューは延期になってしまいました。そのため、同車は落成後北海道の札幌運転所(当時)に配属されたものの、それは書類上のことで、実際には暫定的に青森に配置され「白鳥」などに充当されました。

そして明けて昭和50(1975)年。名実ともに札幌に引っ越し、7月1日に満を持して北海道初の電車特急として走り始める…と思ったら、やはり労使紛争が原因で、今度は同月18日に延期されました。延期に次ぐ延期。今にして思うと、これも1500番代の悲運を暗示しているように思えます。

それでも、北海道初の電車特急として「いしかり」が走り出せば、好評をもって迎えられました。当時としては最短編成、短距離、しかもグリーン車もない特急でしたが、そこは利用者と沿線住民の高い期待があったためか、乗車率も大いに好調でした。

 

しかし、その年の冬、試練と呼ぶには余りにも過酷な運命が彼らを襲うことになります。

711系なら完全な交流電車であり、回路に接点がないので無問題なのですが、1500番代は交直両用とはいえあくまで直流電車。しかも抵抗制御のため抵抗器の接点が存在し、そこに雪が入り込んで融けて絶縁不良を引き起こしたり、融けたはずの雪が走行中に再び凍って各種機器の動作不良を引き起こしたりするようになりました。

なぜこのようなことが起こるかというと、原因は北海道の雪質。北海道の雪は、東北以南とは異なるパウダースノーのため、雪の粒子が非常に細かく、その非常に細かい雪が機器の内部に入り込み、絶縁不良や再凍結による不具合を引き起こす原因になっていたというわけです。

しかも北海道特有のパウダースノーは、客用扉の隙間からデッキ部に入り込み、それが車内の暖気で一旦は融け、再度凍ってしまうことで客用扉の開閉が不能になるというトラブルも引き起こしました。これは走行中に車内が負圧になってしまうことが理由ですが、隙間を作ったまま開閉不能になった客用扉から吹き込んだ雪のため、デッキに雪溜まりができ、その雪溜まりに溜まった雪で乗客の子供が雪合戦に興じていたという、笑うに笑えない出来事すらありました。

さらに当時のダイヤでは、旭川に夜間1編成が滞泊することになっていたのですが、旭川には当時電車の格納庫がなかったため、編成が極寒の旭川、それも野外で夜明かしを余儀なくされたことも、不具合の原因の一つとされています(真冬の旭川の最低気温は氷点下20度を割り込む)。

 

これらの不具合により、まともに運転できる編成が減ったことと、折返しの間合いを確保して十分な整備をする必要が生じたことから、北海道総局は前代未聞の「計画運休」を実施、「いしかり」は間引きダイヤで対応することになりました。それだけでは足りず、「いしかり」を所定の6連から電動車ユニット1組を抜いた4連で運転することすらありました。これだけ雪に苦労していたにもかかわらず、そしてそのためにわざわざ間引きダイヤを設定したにもかかわらず、それすらまともに運転できない体たらく。しかし711系の急行「かむい」は、何の問題もなく運転されている。

これには、流石に現場の乗務員も「いしかり」への乗務を拒否するなど、ただでさえ厳しい労使関係が、余計に険悪になるという、深刻な副産物まで産み出してしまいました。

 

勿論、国鉄(北海道総局)も手を拱いていたわけではなく、旭川駅で滞泊する編成を札幌まで深夜・早朝に機関車牽引で回送したり(そのために先頭車の連結器が密着連結器から自動連結器に交換された)、旭川に格納庫を建設したりするなど、打てる手は打っています。

しかし、やはり直流電車の485系では限界があったということか、昭和53(1978)年、711系をベースとした交流専用の特急電車、781系の試作車が登場し、「いしかり」の運用に入ります。781系は北海道での使用に特化された車両であり、485系のような不具合は生じようのない車両でした。

昭和54(1979)年には旭川の格納庫も完成し、かつ781系試作車も運用入りしたため、「いしかり」としては最後の冬となった昭和54~55(1980)年のシーズンには、遂に計画運休が一度も発生せず、輸送障害もありませんでした。

そして昭和55(1980)年10月の全国ダイヤ改正で、室蘭・千歳線の電化が完成したことに伴い、781系量産車を用いて室蘭-札幌-旭川間に「ライラック」が走り始め、「いしかり」は「ライラック」に発展的解消を遂げました。485系1500番代は、781系量産車の早期落成と入れ代わり、その年の7月ころには全て「いしかり」運用から撤退し、10月のダイヤ改正を待たずに本州に帰っていきました。

 

今にして思うと、電車特急の運転開始が多少遅れてもいいから、781系のような北海道用の車両を作るべきだったのではないか。当時の目で見たとしても、その結論しか出てきません。もし485系ではない北海道用の車両だったら、ここまでの不具合が生じることはなかったはずです。そういう意味では、485系1500番代の北海道への投入は「失敗」以外の何物でもなく、大きな「挫折」「蹉跌」でした。悲しいことですが、そう結論付けざるを得ません。

それでも、485系1500番代の功績を挙げるとするなら、同系の決定版といわれる1000番代について、苦い経験がフィードバックされたことではないでしょうか。その意味では、485系1500番代について、「生まれてくるべきでなかった車両」とか「生まれてこない方が良かった車両」とまで断ずるのは、正しい評価ではないように思われます。

 

次回は、485系の決定版・1000番代について取り上げます。

 

-その10へ続く-


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