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4149.485系・その栄光の生涯 その30 最後の定期運用となった「糸魚川快速」

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平成28(2016)年3月の北海道新幹線新函館北斗開業に伴い、全ての定期特急列車の運用を失った485系。
しかし、この時点においてなお、定期運用は依然として残っていました。それが、新潟-糸魚川間の快速列車です(以下『糸魚川快速』)。
実はこの列車、8621M・8622Mという列車番号が振られていて、この番号から分かるとおり臨時列車の扱いだったのですが(列車番号の8000・9000番代は臨時列車だが、前者はダイヤグラムに予め盛り込まれている予定臨時列車、後者は『盛りスジ』と言われる、事後的にダイヤを引いた本当の意味の臨時列車)、毎日運転の予定臨時列車だったので、実質的には定期列車であり、そのような列車に充当される運用も定期運用と評して差し支えないと考え、ここまでそのような言い方をしてきました。
 
「糸魚川快速」登場の経緯は、北陸新幹線金沢開業に伴って「北越」がなくなるため、新潟県西部と県都を結ぶ列車の必要があったことなどが理由です。新幹線開業以前は、そのような需要を担うのは「北越」でしたが、「北越」廃止により新潟から糸魚川へ達する直通列車がなくなってしまうことにより(『北越』の後釜である『しらゆき』は直江津から新井・高田方面へ向かう)、利便性の低下が懸念された結果、毎日運転の臨時列車として設定されたのが「糸魚川快速」です。そのためか、「糸魚川快速」のダイヤは、下りが早朝に糸魚川を出て午前中に新潟に達し、上りは官庁の終業時刻から35分後に新潟を出て糸魚川に達するというもので、明らかなビジネスダイヤとなっていました。
実はこのような列車は国鉄時代にもあり、同じようなダイヤの気動車急行「ひめかわ」が、昭和57(1982)年11月14日まで青海-糸魚川-新潟間に走っていたことがあります(青海-糸魚川間は普通列車)。ただしこちらは「糸魚川快速」とは異なり、柏崎から当時は非電化だった越後線を経由し、長岡を経由していませんでした。「糸魚川快速」の運転開始は、越後線経由か長岡経由かという違いはあっても、実質的にはこの「ひめかわ」の復活ではないかといわれ、鉄道趣味界ではこの列車名が「糸魚川快速」に冠されるのではないかともいわれましたが、結局「糸魚川快速」は名無しのままとなりました。
 
かくして、平成27(2015)年3月14日の北陸新幹線金沢開業と同時に、「糸魚川快速」が走り始めました。ただし「糸魚川快速」の走行区間のうち、直江津-糸魚川間は新幹線開業と同時にJR西日本から切り離され、「えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン」となっています。つまり「糸魚川快速」は、JR東日本からえちごトキめき鉄道に乗り入れるという運転形態となっています。
そもそもなぜこの列車に485系が充当されるかといえば、終着となる糸魚川と、その1つ前の梶屋敷の間に、交流20000V60Hzと直流1500Vのデッドセクションが存在し、糸魚川駅の構内が直流電化ではないからです。これにより、「糸魚川快速」は、485系唯一の、直流/交流のデッドセクションを通過する定期運用ともなっていました。
ちなみに、「糸魚川快速」運転開始の時点では、まだ特急「白鳥」の定期運用が残っていました。つまり平成27年3月の北陸新幹線金沢開業の時点で、485系の定期運用は「白鳥」と「糸魚川快速」だけになっていたのですが、前者の走行区間が全区間交流20000V50Hz、後者の走行区間が直流1500V/交流20000V60Hz。
ということは、平成27年3月の時点において、3つの電源方式全ての路線で485系の定期運用が存在していたことになります。これは、3電源方式として生を受けた485系にとって、最後まで本領を発揮し続けた結果ではなかったかと思われます。
 
「糸魚川快速」は、北陸新幹線金沢開業の日から、485系で運転を開始します。編成は、前日まで「北越」などに使われていた3000番代の6連。しかも半室とはいえグリーン席もあり、見た目も車内設備も、特急と遜色のない姿でした。そのような列車が、特急料金なしで乗れるわけですから、破格のサービス列車ともいえました。
 
「糸魚川快速」が運転を開始してから1年。
平成28(2016)年3月21日、北海道新幹線新函館北斗開業の5日前。青函トンネルの信号システムなどの変更の必要から、この日を限りに全ての在来線列車を運休とする措置が取られ、「白鳥」はこの日限りとなりました。
これにより、485系の定期運用は、いよいよこの「糸魚川快速」の1往復だけとなります。新潟にはこの「糸魚川快速」用の同系の3000番代6連2本が残り、「いなほ」「北越」として活躍していたころと変わらない姿で、新潟と糸魚川の間を行き来していました。勿論、糸魚川-梶屋敷間のデッドセクションも毎日越えていましたから、この「糸魚川快速」の運用は、最後まで485系らしさを保った運用と言えます。
 
しかし、そのような運用は、僅か2年で終わりを告げることになりました。
平成29(2017)年3月4日、JR全社でダイヤ改正を実施することがアナウンスされ、そこで様々な列車の改廃が明らかになりました。その中で、JR東日本が「糸魚川快速」の廃止をアナウンスしたのですが、このアナウンスは、鉄道趣味界に衝撃をもって受け止められました。「糸魚川快速」は最後に残った485系の定期運用であるところ、同列車の廃止は、その最後の定期運用の消滅を意味しているからです。
このニュースが、鉄道趣味界に衝撃をもって受け止められた理由は、その他にも少なくとも2つあります。1つは、485系の誕生50年目(481・483系ではなく正真正銘の485系の誕生)にして、485系の定期運用が消滅したこと。もう1つは、485系の定期運用の消滅が、国鉄消滅から満30年の節目に当たる年だったこと。特に後者は衝撃的で、「国鉄は遠くなりにけり」という現実を、否応なしに突き付けるものになったからです。
しかし、考えてもみれば、既に国鉄が消滅・JRが発足してから今年で30年が経過しています。ということは、それ以前から活躍している485系の車齢は、当然それを上回っています。1000番代の最後の新造車が昭和54(1979)年の落成ですから、今年で車齢は38歳。それを考えると、よくぞ今まで活躍を続けてきたものだと、驚嘆せざるを得ません。
 
こうして、485系は、平成29(2017)年3月3日をもって、全ての定期運用を失うことになりました。
しかし、全ての485系が消えたわけではありません。同系の中で、ジョイフルトレインに改造されたものが東日本に残り、今後も活躍が見込まれます。とはいえ、同系と同じなのは足回りだけで、内外装とも似ても似つかなくなっていますし、もはや日常の列車に充当される車両でもありません。
そうであるならばやはり、「糸魚川快速」の廃止により485系は終わった、と見て差し支えないのだろうと思います。
 
長きにわたった連載も、いよいよ終わりが見えてきました。
予定ではあと2回でしたが、1回分増結します。内容は番外編その2として、485系列の足跡を振り返ります。そして残りの2回は、これまでの連載の総括として、485系の半世紀の生涯において、彼らが残したものは何だったのか、それを考えてみたいと思います。
 
-その31に続く-

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