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4374.路地裏の超特急~京急「快特」物語 その5 「通勤快特」誕生と2代目700形

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その4(№4367.)から続く

今回は、朝ラッシュ時の混雑解消と速達性の確保を狙った「通勤快特」、及び同列車に使用された700形(Ⅱ)について取り上げます。

昭和40年代半ばに入ると、京急でも通勤客の増加が顕著になります。
そこで編成両数の増加が行われ、都営地下鉄直通列車は6連のままだったものの、優等列車は6連ではなく8連から10連へ増強されました。ただし、このときはまだ品川駅のホーム有効長が8連までの対応だったため、堀ノ内などで2両の増結車をつなぎ、神奈川新町で切り離す運用を行っていました(同駅はホーム有効長が8連分だったため、増結車の客扱いは横浜までとして、横浜-神奈川新町間は回送扱いにした)。
それでも足りず昭和49(1974)年、京急は優等列車の12両化を目指し、金沢文庫、上大岡、横浜の各駅改良工事を完成させ、朝ラッシュ時の品川どまりの線内特急4本について、金沢文庫-横浜間で12両運転が開始されました。
しかし品川への12連の到達は、同駅の改良が完成する昭和56(1981)年を待たざるを得ませんでした。

かようにして、京急では大手私鉄で最長の12連での運転が開始されたものの、その区間が横浜までに限られていたため、「横浜以南からの乗客をできるだけ品川へ引っ張る」という京急の目論見は、こと朝ラッシュ時の輸送に関する限り、足踏みせざるを得ない状態が続きました。
その足踏みから脱却したのが、12連での運転が開始された7年後の昭和56年。この年、品川と京浜川崎(京急川崎)のホーム12両対応化などの改良工事が完成、この年の6月に、京急は長年温めてきた、朝ラッシュ時の切り札「通勤快特」の運転を開始します。
「長年温めてきた」というのは、この列車の運転開始から遡ること10年、600形(Ⅱ)が冷房改造・更新工事完了後の姿を新町検車区で披露したときに、「通勤快特」のサボを掲げた写真が残されているからです。勿論こんなものが愛好家の自作であるはずはなく、京急が作ったことは明らかですから、このころから構想自体はあった、それもかなり具体的なものがあったという傍証になります。
この列車の運転の意図は勿論、「横浜以南からの乗客をできるだけ品川へ引っ張る」、それも通勤客の横浜からの国鉄・東急への流出を防ぎ、品川まで京急に乗ってもらうこと、そしてそのためには横浜-品川間の速達性の確保がどうしても必要で、同区間では途中京浜川崎にしか停車しない列車を運転することにしたことです。
ただし身も蓋もないことを言ってしまえば、横浜以北で12両対応にする駅を京浜川崎と品川だけにすれば、とりあえず朝ラッシュ時に12連の快特が運転できるということで、この両駅のホーム延伸が急がれたということです(当時、京急蒲田は快特停車駅ではなかった)。

こうして、昭和56年6月、新たな種別「通勤快特」が運転を開始します。停車駅は、横浜以南では特急と同じ停車駅、横浜以北では京浜川崎と品川のみ停車とすることで、長編成による輸送力と速達性を両立させようとしました。ちなみに「通勤快特」は正式名称で、「通勤快速特急」の略ではありません。
この列車には、勿論600形(Ⅱ)も充当され、運転開始当初しばらくの間は、同形の先頭部に「通勤快特」のサボ(ただし昭和46年当時のものとはデザインは全く異なる)を誇らしげに掲げたものですが、やはりラッシュ時のこと、同形では乗降性に難があることは否めません。このことから、「通勤快特」に充当される車両も、600形(Ⅱ)よりもオールロングシートの1000形(Ⅰ)、あるいはラッシュ対策車の700形(Ⅱ・以下省略)が多くなりました。700形は普通車(各駅停車)に充当するため加減速性能を向上させ、かつ1両あたり扉を4ヶ所に増やした車両ですが、「通勤快特」は地味な運用に終始した同形にとって、数少ない晴れ舞台でもありました。

ここでちょっと700形について触れておきましょう。
700形は、昭和42(1967)年から46(1971)年にかけて、McTTMcの4連×21編成84両が製造されましたが、当初はMcTMcの3連で計画されていました。両端の電動車がデハ700形、中間の付随車がサハ750ではなくサハ770形になっているのは、この計画の名残です。しかしなぜか当初計画は変更され、付随車を1両ではなく2両組み込むことになりました。この計画変更による電動車の出力や歯数比の変更はなされないままでしたから、700形が当初計画どおりの起動加速度を得ることはできませんでした。京急では、700形を登場当初こそ普通車に使用していたものの、昭和53(1978)年に普通車の運転曲線を吊り掛け駆動車基準から700形のMcTMc基準に引き直してスピードアップを図ったことにより、付随車の1両多い700形は、普通車のダイヤに乗ることができなくなってしまいました。
そこで京急は、700形4連を3本つないで12連を組成、朝ラッシュ時の「通勤快特」など、混雑時の輸送力列車に充当することにしました。これは同形の、他車よりも扉が多いことを生かしたものですが、これは大当たりだったといえます。それにしても、700形の「通勤快特」その他ラッシュ時の優等列車は、12両編成で側扉の数は実に48ヶ所。当時は常磐線の4扉車15連も多扉車もありませんでしたから、この数は大変なインパクトがあったのではないかと思います。その他の編成は、4連のまま朝ラッシュ時の特急の増結用として使用されていました。
なお、以上とは別に、700形の付随車を1両抜き、3連で本線の普通車や空港線の区間運転などに使用する一方、抜いた付随車を1000形(Ⅰ)の中間に組み込むということも行っています。しかし、オールMの1000形(Ⅰ)にとって、付随車を増結することは単純に編成全体の負荷を増やすことに他ならず、そのためこの編成の運転には、運転士も苦労したと聞きます。
なお、700形は落成当初は全車非冷房でしたが、昭和55(1980)年から63(1988)年にかけて、全車の冷房化が完了しています。ただし、このとき冷房関係機器の搭載を編成内で振り分けたことに伴い、冷房化改造後はMcTMcの3連を組成することができなくなり、退役までMcTTMcの4連で運行されることになりました。
そのためかどうか、700形は退役も比較的早く、平成10(1998)年から退役する編成が出始め、その7年後の平成17(2005)年までに全車京急から姿を消しています。一部は高松琴平電気鉄道(琴電)に移籍し、現在でも活躍していますが、残りは解体処分されました。

「通勤快特」という種別そのものも、平成11(1999)年7月のダイヤ改正で消えてしまいました。ただし列車としてはまるまる残っており、金沢文庫を境に同駅以南は特急、同駅以北は快特として運転されるように変更されています。

次回は、いよいよ600形に代わる、京急のフラッグシップが登場します。

-その6に続く-
 


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