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4598.特急大衆化の申し子~183・189系物語 その2 「とき」を救え!雪に強い1000番代

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その1(№4593.)から続く

183-0が初めて投入された翌年の昭和48(1973)年から、同系は房総特急のみならず中央東線の「あずさ」にも充当されるようになりました。今にして思えば、同系が本来の実力を発揮したのは、房総特急よりも、むしろこちらではなかったかと思われます。
当時、既に上越系統の「とき」に充当していた181系の老朽化が問題になっていたところ、国鉄当局は181系を新幹線開業まで使い倒すのは無理と判断し(当時既に上越新幹線は着工していた)、183-0を追加投入するか、それとも全くの新形式を投入するかの検討をしていました。ちょうどそのころ、昭和48年末から翌年2月にかけて、新潟地方は豪雪に見舞われ、列車ダイヤの混乱が続きました。中でも「とき」に充当していた181系のダメージが特に深刻で、車両故障が頻発して途中駅での運転打ち切りや運休が増加し、メディアで批判的に取り上げられたばかりか、国会でも問題にされるまでに至るなど、社会問題と化してしまいました。
そこで、国鉄当局は代替車両の投入を決断します。その車両こそが、183-0に徹底的な耐寒耐雪構造を施した、183-1000です。
183-1000のスペックは以下のとおり。

① 711系を参考に耐寒耐雪構造を強化。
② 電動発電機(MG)を両先頭車のみならずT’s車にも搭載、編成全体の冗長性を確保。
③ 先頭車は貫通構造から非貫通構造に変更。
④ パンタグラフ搭載車両をM(モハ183)からM’(モハ182)に変更。
⑤ 普通車の片側2ヶ所の客用扉、グリーン車の車販準備室設置など、183-0の基本スペックを踏襲。
⑥ 車種は183-0同様、クハ183、モハ182・183とサロ183(TsとT’sの2種)のみ。食堂車・ビュッフェは無し。
⑦ 普通車の簡易リクライニングシートにロック機構を追加、座り心地を改善。
⑧ カラーリングは183-0と同じだが、先頭車では窓周りのワインレッドが乗務員室扉にかかっていない。

183-0も一応の耐寒耐雪構造を施していましたが、それを徹底させたのが183-1000です。耐寒耐雪構造の強化(①)とは、床下機器の構造・配置の見直しで、具体的には

・ ブレーキ系統を集約して1つの箱にまとめる
・ 183-0では床下搭載だった先頭車のMGを先頭部助士席側搭載に変更
・ MG等の冷却風を車体側面の空気取り入れ口から取り入れ雪を吸い込まない構造にする

ということです。その他にも、1編成あたりMGを3台搭載して冗長性を確保し(②)、かつその3台のMGを運転台からの操作で適宜切り替えることができるようにするなど、バックアップ体制も盤石となっています。ここまで読んでこられてお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、上記スペックは全て後の485系1000番代と同じで、同系にも183-1000の発想が生かされています。また、183-1000の先頭車が非貫通構造に変更されたのは(③)、183-1000の運用が分割併合を想定していないこと、豪雪地帯を走行するため隙間風を防止する必要があったことが理由です。パンタグラフ搭載車両を変更したのは、183-0ではM車に主要機器を集約していたのですが、降雪時に機器の点検を容易にするため機器の分散を図った結果です。
あとの⑤ないし⑦は、耐寒耐雪構造を強化した結果としての設計変更以外は、概ね183-0を踏襲しています。ただし普通車の簡易リクライニングシートだけは、183-0初期車のそれが不十分で不評だったことから(座っている人が背中の力を抜くと背もたれが戻されてしまい、しかもそのときに『バタン!』と大きな音がする)、リクライニングしたときに背もたれが固定されるよう、ロック機構を追加した改良型に変更されています。これについては、183-0の増備車も同様に変更され、初期車もロック機構が改造で追加されました。
183-1000で残念だったのは、「とき」でも利用率の高かった食堂車が連結されなかったことです。これは乗客からも大ブーイングが上がったばかりか、業者も営業を望んでいたにもかかわらず車両が用意されないという、それこそ「誰も幸せにしない」事態を招いてしまいました。183-1000の「とき」編成は8M4Tの12連ですが、これに食堂車を1両組み込んだとしても8M5Tの13連ですし、上越線は上越国境に連続20‰の勾配があるとはいえ、急行の「佐渡」は165系13連で運転されていましたので、MT比率も編成長も無問題。にもかかわらず車両が用意されなかったのは、同系が新幹線開業後の他線区への転用を視野に入れていて、転用の難しい食堂車の新造投入が憚られたとも、当時尖鋭化していた労使関係・組合問題が影を落としていたともいわれています。今思えば、山陽新幹線博多開業後に「有明」「にちりん」の食堂車が利用率低迷で壊滅したのですから、山陽特急を退いた後の485系からサシ481を抜いて引き通しを改造し、183-1000の編成に組み込み、新幹線開業と同時にお払い箱にすれば、余剰車となることなく、有効活用できたと思うのですが。あるいは新幹線の27+36のユニットのような、半室ビュッフェとバリアフリー対応車両のユニットを用意してもよかったのではないか、これなら後の「あずさ」転用後にも活用できたような気がします。いずれにしても、組織内部の事情をもって、利用者のみならず業者の不利益に転嫁してしまった国鉄当局の姿勢は、公営とはいえサービス業にあるまじき姿勢だったと言わざるを得ません。しかも残念なことに、国鉄当局のこのような姿勢は、183-1000投入の際に限った話ではありませんでした。これでは「国鉄離れ」、利用者の離反が進んでしまったのも、無理もない話です。

ところで、183-1000の設計着手から実際の車両の投入までの間は1年もなく、国鉄当局にとっても設計・製造などの現場にとっても、同系の製造・投入はかなりの突貫工事であったことが容易に見て取れます。実際、183-1000の現車は昭和49(1974)年12月に第1陣38両が投入され、試運転もそこそこに「とき」3往復を181系から置き換え、その後さしたる不具合もなく、好調に増備が続けられ、新幹線開業直前には14往復の「とき」のうち実に11往復の運用を手中に収めるなど、その活躍ぶりは全く非の打ち所がないものでした。
なぜここまでの突貫工事が可能になったのか、そこには様々な理由が挙げられますが、以前当ブログの別の記事で記したのは、当時既に「あさま」を置き換えるための、183-0を母体とした新設計の特急用車両の設計が相当程度具体的に進んでおり(これが言うまでもなく189系のこと)、183-1000はその設計から横軽対策(補助機関車との協調運転機能)のみを取り除いた形で設計・製造されたからだったというものです。しかし、「鉄道ピクトリアル」の183・189系特集(2010年4月号)では、逆に183-1000に横軽対策を付加したものが189系なのだという記述が見られます。どちらが正しかったのでしょうか?

このようにして「とき」を救った183-1000ですが、その後、上越線ほどのシビアな自然環境ではない路線向けにも、183-1000が追加投入されることになります。

-その3に続く-


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