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4870.特急りょうもう物語 その8 1800系の転身②~通勤車転用と幻の東上線転用

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その7(№4864.)から続く

今回は前回に引き続き、「りょうもう」運用を追われた1800系の転身について取り上げます。
「りょうもう」運用を追われたあとの1800系の足取りについては、

1 日光線急行用への転用
2 通勤車に改造(群馬地区ローカル列車用)
3 幻に終わった東上線への転用計画

がありますが、前回1を取り上げましたので、今回は2と3を取り上げます。

2 通勤車への改造
この話題は、以前の連載記事でも取り上げていますが、改めて。
200系列投入に伴い、最初に離脱した4編成(1813F・1816~1818F)が日光線急行用に転用改造を施されたのは前回取り上げたとおりですが、後に運用を外れた4編成(1811F・1812F・1814F・1815F)は、平成11(1999)年の「りょうもう」200系列統一後しばらくの間、館林に留置されていました。当初計画では、1819Fを含めた2編成が300系に改造、さらに残り3編成が機器のみ流用で「250系」(史実の250系とは別物)に改造されることになっていましたが、その後の計画の見直しにより300系は2編成にとどまり、250系も完全新造車1編成のみとなって1800系からの機器流用計画がなくなったため、この4編成が宙に浮いた格好になっていました。
そこで東武は、館林・太田地区に残っていた吊り掛け駆動車(5000系列)を淘汰すべく、上記のとおり遊休状態にあった1800系の活用を計画、上記4編成のうち1814Fを除く3編成について改造を施しました。
改造メニューは以下のとおり。

① 編成を6連から4連に変更、1815Fは車号を変更(1813Fに)。
② 旧1815F→1813Fに関しては前面窓を交換。
③ 正面の愛称表示器の位置にLEDによる行先表示器を設置。
④ 前面上部の標識灯撤去。
⑤ 車体色を鋼製通勤車標準色(ジャスミンホワイト地に濃淡ブルーのライン)に変更。
⑥ 車内は中央部の座席片側各10脚のみを残して座席を撤去、吊手を設置。座席は向かい合わせにして固定化。
⑦ トイレ、自動販売機、デッキの仕切り壁を撤去(ただし配電盤などの設置場所はこの限りではない)。
⑧ 窓には遮光フィルムを貼り、カーテンを撤去。

国鉄→JRの715系や419系を彷彿とさせる、1800系の通勤車改造ですが、この3編成が竣工し運用入りしたことによって、5000系4連1本、5050系2連2本がそれぞれ運用を離脱しています。ただし、流石に伊勢崎線末端区間(太田-伊勢崎間)では使えなかったようで、あまり混雑しない佐野線・小泉線で使用され、それもラッシュ時間帯はできるだけ避けて運用されていました。それでも通学の高校生が集中する時間帯などは、乗降に時間がかかっていたようです。
「安住の地」を得たかに見えた1800系の通勤車化改造車ですが、その活躍は長くは続きませんでした。東武は、閑散線区合理化のためワンマン運転を計画、平成18(2006)年3月のダイヤ改正で佐野線のワンマン化がスタートしました。そこで投入されたのは8000系を短編成化改造した800/850系ですが、こちらはワンマン運転に対応した機器が備え付けられたのに対し、1800系はワンマン運転には対応していませんでした。そのため、この改正をもって1800系は佐野線から撤退、小泉線のみで運用されるようになります。
しかし佐野線から撤退した僅か4ヶ月後、今度は小泉線からも追われてしまいます。東武は小泉線でもワンマン運転の実施を計画していたのですが、それに対応する車両(8000系2連)が竣工したため、ワンマン運転開始に先立って車両のみ置き換えられることになりました。実際には同年7月3日をもって、1800系は小泉線から撤退しています。
これによって、1800系通勤車化改造車は全ての定期運用を失いました。
定期運用喪失後は、かつての「りょうもう」運用離脱直後と同じように館林に留置されていましたが、流石に再起することはなく、その翌年の平成19(2007)年に北館林に回送され、そこで全車解体処分となっています。
1800系通勤車化改造車は、平成13(2001)年に竣工してから、僅か5年という短期間の活躍になりました。

最後に、1800系通勤車化改造車にスポットライトが当たった、ほぼ唯一の機会を取り上げ、彼らに対する餞(はなむけ)とします。
それは平成17(2005)年に開催された南栗橋車両管区・南栗橋工場の公開イベント「東武ファンフェスタ」で、「歴代『りょうもう』」の一員として展示されたこと。「りょうもう」のカラーリングを残していた1819F、日光線急行用に改造された300系、そして現「りょうもう」用の200系と並び、愛好家の熱い注目を浴びていたものです。その翌年に定期運用を離脱したことに鑑みますと、あれは彼らに対する退役への「花道」を東武が用意したのではなかろうかと、そんなことも考えてしまいます。

3 幻に終わった東上線への転用計画
最後に実現しなかったお話。
1800系には実は、「りょうもう」運用を離脱した前後に、東上線への転用計画が存在しました。かねてから東上線では有料優等列車あるいは着席保障列車のニーズが強く、それを実現させるための計画だったことは、想像に難くありません。
しかし、実際には実現することはなく、東上線での着席保障列車は平成20(2008)年の「TJライナー」の運転開始で実現しています。
それでは、なぜ1800系の転用は実現しなかったのか?
曰く、森林公園に汚物処理設備がなかった(東上線にはトイレ設置車両は在籍しない)。曰く、現場の職員が嫌がった(東武は大手私鉄の中でも労組の力が強い)。様々な要因があるでしょうが、最大の理由は、車両のスペックの陳腐化と具体的な需要予測の結果でしょう。特に商売として考えた場合、日光線や伊勢崎線とは異なり、東上線沿線には名だたる観光地もビジネスの拠点もありませんから、有料優等列車の恒常的な運行が難しいと断を下されたのも、やむを得ないように思われます。
もし東上線への1800系転入が実現していたら、1800系編成から後に挿入した2両を抜いて登場当時の4連に戻し、8000系の6連と併結して、南海の「サザン」のような列車が走っていたのではないか、そして小川町で8000系6連を切り離し、1800系4連のみが寄居、あるいはその先の秩父鉄道へ…と、妄想は尽きません。

次回は、1800系の中でも最後まで「赤い急行」の姿を保ったまま退役した、1819Fの「りょうもう」運用離脱後の歩みを取り上げます。

-その9へ続く-


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