今回から全14回にわたり、目蒲線~目黒線の歴史を概観する「リアル目蒲線物語」の連載を開始いたします。
今年2020年は、それまで目黒-蒲田間の路線だった「目蒲線」が、目黒-田園調布-武蔵小杉間を「目黒線」とし、多摩川園-蒲田間を「東急多摩川線」として、運転系統を分割してから、ちょうど20年の節目に当たります。この系統分割がなされたのが、20年前の平成12(2000)年の8月6日。同じ日に、多摩川園駅は「園」を取って多摩川と改称されています。
さて、現在の目黒線~東急多摩川線、かつての「目蒲線」は、目黒蒲田電鉄(目蒲)が大正12(1923)年3月11日に目黒-沼部間を開業させたのが始まりで、蒲田へは同じ年の11月1日に達しています。両者の間は僅かに8ヶ月しか開いていませんから、実質的に見れば、目黒-蒲田間は殆ど同時開業といってもよいでしょう。大正12年といえば、あの未曽有の大災害「関東大震災」が発生した年ですが(発生は9月1日)、東京の都心部が壊滅的なダメージを被ったのに対し、目蒲線の沿線、具体的には目蒲・東横の母体となった住宅開発の会社「田園都市株式会社」が開発した郊外の住宅地は殆どダメージを被らず、そのためこの住宅地に都心部からの移住者が多くなり、このことが、目蒲の集客と安定経営にかなり寄与したといわれています。
ここでちょっと「田園都市株式会社」について触れておきましょう。
この会社は、理想的な住宅地「田園都市」を開発することを目的として、実業家の渋沢栄一らによって立ち上げられた会社で、現在の東急電鉄・東急不動産の始祖にあたります。この会社が開発を手掛けたのが、「洗足田園都市」「多摩川台」で、前者は現在の目黒区洗足、後者は現在の大田区田園調布・世田谷区玉川田園調布に跨る住宅地となっています。田園都市は、この2ヶ所の他にも、現在の目黒区大岡山地区に分譲地を確保していましたが、こちらは関東大震災でダメージを受けた東京高等工業学校(現:東京工業大学)の移転先として提供されることになり(東京高等工業学校はもともと蔵前にあった)、住宅地としての開発に供されることはなく、同大学の敷地となりました。
実は目蒲線は、この住宅地へのアクセスとして計画・建設されたもので、田園都市はこの路線の建設のために荏原電気鉄道という会社を設立し、鉄道敷設の免許を得させたものです。この荏原電気鉄道という会社が、後の目蒲であることは言うまでもありません。
これはまさしく、鉄道敷設と沿線開発を一体的に進めるものですが、この手法で成功したのが、阪急電鉄の創業者小林一三。小林は、当時の田園都市の役員から依頼され、「月1回の上京の折に役員会に出席、役員報酬はなし、自分は表に出ない」ということを条件に田園都市の経営に参画しますが、自らの提案が遅々として実現しないことに苛立ちを覚え、誰か実行力のある人物に経営に参画してもらわなければ、事業が進まないことを痛感します。そこで小林は、鉄道省出身で武蔵電気鉄道(後の東京横浜電鉄)の経営に携わっていた五島慶太に経営に参画してもらうことを、他の役員に提案しました。この提案は了承され、五島が田園都市の経営に携わることになります。五島慶太といえば東急の事実上の創業者として著名ですが、これまで述べてきたところから明らかなとおり、彼は東急を一から築いたわけではありません。「事実上の」という修辞がつくのは、このことが理由です。
なお、田園都市は昭和3(1928)年、分譲地の販売終了に伴い役割を終えたとして、子会社であった目蒲に吸収合併され、法人としては消滅しています。
五島と小林の関係といえばもうひとつ。
五島慶太vs早川徳次の「地下鉄戦争」の際、東京地下鉄道の株式を五島に買い占められた早川が、小林に助けを求めたのを、小林がけんもほろろに切って捨てたことがあります。小林としては、自分の事業に無関係な事項には「我関せず」を貫いていたので、東京の「地下鉄戦争」などは自分のあずかり知らぬことであるとして、どちらにも与しなかったのでしょう。結果としては、小林が早川を事実上「見捨てた」ことで、五島をアシストした形になってはいますが。
目黒-沼部間の開業から3年後の大正15(1926)年、現在の東横線となる、丸子多摩川(現:多摩川)-神奈川(反町-横浜間に存在した)が開業しました。この区間の開業は、渋谷-丸子多摩川間の開業に1年先んじています。ただし当時、この路線は目蒲線とは別会社である「東京横浜電鉄」(東横)の路線でした。もっとも、別会社とはいっても経営陣の顔触れは殆ど同じですし、車両の融通も頻繁にしていたので(あのモハ510→デハ3450も目蒲・東横の両社が導入した)、かなり密接な関係にありました。
その密接な関係を生かしたということか、丸子多摩川-神奈川間の開業と同時に、東横の電車は目蒲に乗り入れ、目黒-神奈川間の直通運転を開始しました。現在につながる運転系統が、今から80年以上前、系統分割当時から数えても60年以上前に表れているのは、非常に興味深いところです。しかしこの直通運転は、東横が翌年に渋谷までの路線を開業させたことで終了していますから、ごく短期間であり、渋谷開業までの中継ぎ的な考えだったのではないかと思われます。
実は、目黒-神奈川間を直通運転していた痕跡は、昭和の末期まで残っていました。それは架線柱で、目蒲線のものは高圧線を併設した非常に背の高いものが使われていて(ガントリ鉄柱)、それが奥沢-田園調布間で東横線側の建植に移るというものです。これは、先に開業した目蒲線の田園調布-丸子多摩川間について、後発の東横線に当初の目蒲線の線路を譲り、目蒲線の線路を新たに敷設したから。しかしこの「ガントリ鉄柱」も、後の改良工事(目蒲線が東横線の上下線の間に入る、現在の配線)の着手の際に撤去されてしまい、現在は残っていません。
当時の目蒲線の運転で面白かったのは、全線を通さない区間列車が多くあったこと。つい最近まで、目蒲線の区間運転列車としては、出入庫を兼ねた目黒-奥沢間、折り返し線のある目黒-田園調布間があり、これらは系統分割直前まで運転されていました。これに対し、戦前に運転されていたのは、目黒-西小山間と下丸子-蒲田間。これは起終点から僅か3~4駅間という短区間ですが、当時は郊外電車とはいえ路面電車の発想が生きていたことや、現在のような長編成での運転ではなくせいぜい1~2両の短編成だったことなどから、短区間での折返し運転が実施されていたものと思われます。前者は恐らく、当時の東京の市街地のエリアがそこまでだったことが理由と思われますが、後者は当時から下丸子駅近辺に立地していた町工場の労働者の通勤対策だったとされています。ただし、西小山は専用の折返し線があり、ホームの目黒方に切り欠きがありましたが、下丸子は通常の中間駅の形態であり、本線上で折り返しをしていたという違いがあります。西小山のホームの切り欠きは、昭和30年代まで残存していたそうです。
ところで、同じ蒲田を発着地とする路線としては、駅の位置が異なる京急、あるいは国鉄~JRを別にすれば、目蒲線(東急多摩川線)の他に池上線があります。皆様ご存じのとおり、池上線は当初「池上電気鉄道」という別の鉄道事業者の路線でした。
その「池上電気鉄道」は、目蒲との間で蒲田駅の乗り入れは勿論、ある路線をめぐってバトルを展開したのですが…次回はそのあたりのお話を。
-その2へ続く-
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