今回から全13回にわたり(予告編では全11回としておりましたが、2回増やして全13回といたします)、昨年で登場半世紀を迎えた「グリーン車」の歴史を回顧する連載記事のアップを開始いたします。よろしくお付き合いください。また前回の記事でお知らせ申し上げたとおり、少なくとも緊急事態宣言解除までの間、連載記事を毎週土曜日更新といたします。その点も合わせてご了承願います。
一口に「グリーン車」といっても、多種多様な車両が存在しますので、それら車両を網羅的に取り上げると、収拾がつかなくなります。そこで、本連載では車両のリストアップや個々の車両の詳述はせず、グリーン車に関する歴史と営業制度の面を中心に見ていくことにいたします。また、国鉄時代末期からJR初期にかけて、雨後の筍のように多数登場した所謂ジョイフルトレイン、及び現在の「ななつ星」のようなクルーズトレインについては、本連載では言及しません。
本連載の初回となる今回は、「グリーン車」の登場に至るまでの歴史を概観することにします。
グリーン車を利用するためには、新幹線から普通列車に至るまで、運賃(+新幹線又は在来線特急の場合は特急料金)に「グリーン料金」を追加して支払います。つまり、グリーン料金は、グリーン車を利用することの対価、設備使用料という位置づけになっています。
グリーン車登場以前は「等級制」が採られていて、運賃から料金まで全てが異なっていました。これは明治期の鉄道黎明期、当時の欧州の鉄道に範をとって、上中下の3等級制を採り、運賃自体を各等級で違えたのが発端です。上中下の呼称は、特に「下等」という言葉の響きが良くなかったためか、明治30(1897)年に一等・二等・三等と改められ、この3等級制が戦争を挟み、63年後の昭和35(1960)年5月31日まで続きました。3等級制時代の車両は、各等級を示す帯が車体(窓下)に巻かれており、一等が白、二等が青、三等が赤(三等車の赤帯は合理化のため昭和15(1940)年に廃止)。そして形式名は順に「イ・ロ・ハ」。グリーン車を示す形式名「ロ」はここからきています。
等級制時代は、上位の等級の運賃は最下等の倍以上。戦前の一等車は三等車の倍以上の運賃、しかも寝台車ともなれば料金も高額だったため、一等車は皇族・華族といった上流階級、あるいは国内外の要人など、限られた人しか乗ることができませんでした。二等車は高級官僚や軍幹部、会社経営者などのセレブリティ、三等車が一般庶民の乗り物という位置づけだったようです。しかし実際の国有鉄道の利用客は、9割以上を3等のお客が占めていたそうですから、その数は国有鉄道でも無視はできませんでした。昭和4(1929)年、東京-下関間の一・二等のみで編成された特急を「富士」と命名する一方で、同じ区間に三等のみの特急を新設した(この列車は『櫻』と命名された)のは、まさにそうした背景があったといえます。
終戦後一・二等車が復活し、昭和24(1949)年に運転を開始した特急「へいわ」が一・二・三各等車両を連結し、3等級の全てが出揃いますが、戦前に一等車が巻いていた白帯は、進駐軍専用車両が巻いていたため、戦後初めて復活した一等車(一等寝台車)マロネ40は、クリーム色の帯を巻いて現れました。展望車など他車も同様となっています。
しかし、昭和20年代後半になり世相が落ち着いてくると、一等車に乗れるだけの運賃・料金を支払うことができる層は、航空機に移行し始めます。これは昼行特急の展望車よりも、寝台料金が別途必要な寝台車に顕著でした。そこで国鉄は、昭和30(1955)年7月、一等寝台を廃止、マイネ40・マイネ41などは全て二等寝台車に格下げされます。この時点では三等寝台車は復活しておらず、ナハネ10の投入は翌年の昭和31(1956)年のことですから(戦前の三等寝台車スハネ30000は、戦時中に座席車に改造されており、この時点では寝台車として復旧されていなかった)、座席車では実現した戦後の各等級の揃い踏みは、寝台車では実現しませんでした。
その後も一等車は、展望車が特急「つばめ」「はと」のシンボルとして連結されていましたが、運賃・料金が高額であることから利用客が減少、特に昭和33(1958)年の電車特急「こだま」登場以降は、スピードも遅く古色蒼然たる車両に、三等の数倍の運賃・料金を支払う価値を見出しにくくなってしまいました。
そこで国鉄は、連結列車も限られ運賃・料金に見合った価値が薄れた一等車を廃止、2等級制に移行します。これが昭和35(1960)年6月1日のこと。つまり、今年は「イ」の記号を持つ一等車が廃止されてから、ちょうど60年の節目に当たります。国鉄は2等級制への移行に際し、旧二等を一等に改め、旧三等を二等に改めました。2等級制への移行に際し、「つばめ」「はと」の展望車の顧客だったセレブリティの需要にどう応えるかという問題が発生したのですが、その問題の解決のために国鉄がとった方策は、一般の旧二等車よりもさらに豪華な「パーラーカー」ことクロ151を連結すること。この車は設計当初「クイ151」という形式名だったそうですが、2等級制への移行に伴い「クロ」の形式名になりました。そして「パーラーカー」利用の運賃・料金は、一等(2等級制移行後)のそれに加えて「特別車両料金」を徴収するという形態になっています。一般の一等車(同前)よりも優れた車両の利用について、その優れた車両を「設備」と見てそれに対する利用料金を設定・徴収するという発想は、まさに現在の「グリーン料金」につながるものと見ることができます。もっとも、「つばめ」のパーラーカー利用の東京→大阪の片道運賃・料金は、現在の貨幣価値に換算すると4万円くらいになるようです。この金額は現在の東海道新幹線「のぞみ」グリーン車の倍以上。それでもそれなりの利用があったことが凄いですが。
2等級制への移行後も、運賃・料金全てが一等と二等で別建てなのは、3等級制時代と変わりませんでした。
ではなぜ「等級制」が放棄されたのか?
それは、国鉄の財政悪化と関係があります。
昭和39(1964)年から国鉄の財政は赤字に転じ、その4年後の昭和43(1968)年の時点で、内部留保を食い潰して完全に赤字に転落したことは周知の事実ですが、この過程で、優等車である一等の利用が減少していきます。これは、昨今のようなデフレ傾向に伴う節約志向ではなく、二等の居住性が座席・寝台ともに飛躍的に向上され、一等のアドバンテージが薄れていったから。加えて、このころは優等列車には冷房がかなり普及しており、特に特急の場合、二等車でも必ず冷房つきになったことから、これも一・二等の設備格差を縮める要因になりました。
そのような次第で、国鉄としては、増収のために客単価が高く収益性の高い一等車の利用率向上を図る必要がありました。
それなら等級制を放棄せずとも、等級制を維持したまま、一等と二等の運賃・料金の格差を縮小させるという方向もあり得ますが、それは当時の運賃制度を前提とする限り、事実上「できない相談」。当時の国鉄では、運賃の改定には国会の承認が必要だったところ、物価安定の名目でなかなかこれが認められなかったという事情があったからです。
そこで国鉄当局は、国会の議決が要らず運輸大臣(当時)の認可のみで改定が可能な料金に着目、運賃を二等運賃のそれに一本化し、その上で一等運賃と二等運賃との差額の相当額を「料金」として位置付け、柔軟な改定を可能にしました。この「一等運賃と二等運賃との差額の相当額」こそが「特別車両料金」、「グリーン料金」です。
以上の次第で、明治以来の国鉄の運賃・料金制度の大転換、即ち「等級制の放棄」「グリーン車(グリーン料金)の誕生」が実現することになります。その日は、昭和44(1969)年5月10日。
実は国鉄当局は、昭和44年度の開始、つまり同年の4月1日からこの新しい運賃・料金の制度を発足させたかったのですが、衆参両議院における国鉄運賃法改正案と国鉄財政再建促進特別措置法案の審議が予想以上に紛糾し、国会通過(成立)が4月1日に間に合いませんでした。そのため新年度初日からの移行はかなわず、1ヶ月以上も遅れてしまいました。何だかその後の国鉄の迷走を暗示させるような展開ともいえますが。
次回は「なぜ『グリーン車』という名前になったのか」を掘り下げます。
-その2に続く-
↧
5125.グリーン車・半世紀の歩み その1 明治以来の歴史的大転換~その理由と背景
↧