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5440.準特急とよばれて~185系物語 その6 200番代登場②~「新特急」登場

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その5(№5433.)から続く

昭和60(1985)年3月14日、東北・上越新幹線は遂に上野への乗り入れを果たします。国鉄はこれを機に、全面ダイヤ改正を実施します(以下この改正を「60.3」という)。
それと入れ代わるように、ダイヤ改正前日の昭和60年3月13日をもって「新幹線リレー号」は運転を終了。昭和57(1982)年6月の東北新幹線暫定開業から数えれば3年弱にわたり、185-200は新幹線アクセス輸送の重責を見事に務め上げました。
さて、そうなると185-200が余剰となりますが、「60.3」で満を持して上野発着の短中距離急行が全て185-200による運転となり、同時に全面特急化されます。
全面特急化された列車は以下のとおり。

① 特急「谷川」と急行「ゆけむり」(上野-水上、臨時で越後湯沢・石打へ延長)を全て「新特急谷川」に一本化。
② 特急「白根」と急行「草津」(上野-万座・鹿沢口)を全て「新特急草津」に一本化。
③ 特急「あかぎ」と急行「はるな」(上野-前橋)を全て「新特急あかぎ」に一本化。
④ 急行「なすの」(上野-宇都宮・黒磯)を「新特急なすの」に格上げ。
⑤ 急行「わたらせ」(上野-小山経由両毛線直通)は廃止。

「わたらせ」廃止はあったものの、上野発着の短中距離急行を全て185-200に置き換えてもなお、7連×4本の余剰が生じました。その4本の余剰となった編成は、ダイヤ改正以降、田町電車区(当時)に転属して「踊り子」運用に供されることになります。「踊り子」転用の準備はダイヤ改正前から行われ、一部には田町への転属を前に、オーソドックスな横ストライプから、185-0と同じ斜めストライプに変更された編成もありました。この変更編成は、ダイヤ改正を前にした昭和60年2月ころから出現し、オリジナルのカラーリングの編成と併結されて「新幹線リレー号」に充当されるなど、上野口では異彩を放っていました。
なお、この改正で地味ながら重要な変化として、「白根」という列車名が消えたことを指摘しておきましょう。「白根」は昭和40年代の短距離行楽特急の運転ブームに伴って登場した列車で、運転開始当初は157系、その後は183-1000が使用されてきましたが、一貫して臨時列車としての設定でした。それが昭和57(1982)年11月の改正で「白根」は定期列車となったのですが、使用車両は臨時列車時代の183-1000から185-200に変更され、定期列車となったものの車両のグレードが落ちたことは、やや残念な感じがしたものです。もしも新幹線リレー号用に、185-200ではなく「183-2000」が投入されていたら、一体どうなっていたでしょうか。案外「183-2000」の中から189系などに改造されるものが出てきたかもしれません。

…余談はさておき。

ところで、↑の①ないし⑤でお気づきかと思いますが、列車名がこれまでにない「新特急〇〇」となっています。
これは当時の国鉄当局が、特に上野発着の185系を使用する短距離特急群について、自由席を主体とし、かつ特急料金を安めに抑えるという特急政策をとって、利用促進を図ったことが理由です。これらの列車の特急料金は、以前に「踊り子」などで採用された安めの特急料金(B料金)とされましたが、50km以下の利用であれば、「踊り子」よりもさらに安く、急行と同じ500円(当時)での利用を可能としました。
さらに、従来の国鉄では、定期券での特急への乗車を認めていなかったのですが(ただし、地元管理局の判断で末端区間など一部の利用を認めていたところはあったようである)、「新特急」では自由席に限り定期券での乗車を可能にし、通勤通学客にも門戸を開きました。
これらの施策は、既に同じ車内設備を備えた185-0が特急「踊り子」として運用されていることから、同じ185-200を運用している上野発着の列車を急行のままにしておくわけにはいかず、特急にしないわけにはいかないこと、さりとて以前の急行時代よりも料金が高額になっていることは事実なので、通常の特急料金を徴収するのは気が引けたと見えて、料金を安めに抑えたということです。身も蓋もないことを言ってしまえば、国鉄当局としては、「実質的な値上げではないか」とか「ボッタクリ特急」などという、利用者やメディアからの批判をかわす狙いをもっていたことは確かでしょう。
しかもこれらの列車は、種別こそ「特急」ですが、急行時代と大して停車駅は変わっておらず、並行して走る特急列車から比べると、どうしても一枚も二枚も落ちる印象がありました。例えば、高崎線系統であれば「あさま」「白山」があり、それらの列車の大半は、上野-高崎間の停車駅は大宮だけで、その停車駅の少なさは際立っていました。対する「新特急谷川」「新特急あかぎ」「新特急草津」は、大宮・熊谷の他にも赤羽・深谷・本庄にも停車、さらにかつて「とき」「いなほ」が1本たりとも停車しなかった新前橋に停車し、そこで分割併合を行うダイヤは、急行時代と大差ありませんでした。もっとも、新前橋停車は分割併合の便宜のためで、同駅が車両基地(新前橋電車区)に隣接していて、要員も揃っていることが理由です。スピードを考えるなら新前橋を通過にして、高崎又は渋川で分割併合すべきなのですが、そうなると要員の配置が分散してしまうので、当時の国鉄の状況では是認できるものではなかったようです。
同じように、「新特急なすの」が走る東北線でも、上野-黒磯間に「つばさ」「あいづ」が1往復ずつ走っていましたが(これらはダイヤ改正後も存置された)、両列車とも同区間の停車駅は大宮・宇都宮と西那須野(あいづ)だけ。対する「新特急なすの」は、赤羽・久喜・古河・小山・宇都宮・矢板・氏家にも停車。こちらも急行時代と同じです。
ありていに言えば、「新特急」なる冠は、一人前の「特急」とは認められない列車であり、「準特急」なのだという烙印を押すのと同じ意味があったように思われます。ここで当連載のタイトルが生きてくるわけですが、0番代・200番代問わず、およそ185系を使用する列車は、一人前の「特急」ではない「準特急」なのだという印象を深くします。
しかし、新幹線と完全に並行する区間で「新特急なすの」が走っていたのですから、新幹線では不便な小山からの両毛線直通、つまり「わたらせ」が新特急になっていてもおかしくなかったような気がしますが、実際には廃止されてしまいました。あちらはやはり、東武が強かったからでしょうか。末期の「わたらせ」は165系の3連でしたし、需要もそもそもその程度だったのでしょう。「60.3」で「わたらせ」が廃止されたことで、小山経由の両毛線直通の優等列車の歴史が閉じられることになりました。

さて、これで185系は、房総以外の首都圏の短距離特急の運用をほぼ一手に収め、確固たる地位を築いたことになります。
そして「新幹線リレー号」廃止であぶれた185-200を受け入れた田町電車区(当時)では、「踊り子」の車種統一が図られることになりました。次回はそのあたりのお話を。

-その7へ続く-


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