Quantcast
Channel: さすらい館
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4315

5805.思い出の上越特急劇場 その10 上越新幹線大宮開業~「とき」は新幹線へ

$
0
0

その9(№5799.)から続く

「とき」を中心に、「はくたか」「いなほ」が覇を競った上越特急劇場。
その様子は、昭和57(1982)年11月15日を境に一変することになります。そう、上越新幹線の大宮暫定開業。
このとき、全国規模のダイヤ改正が実施されたのですが(57.11)、上越特急には以下のような変更がありました。

① 「とき」14往復を全て廃止。車両については、181系は一部の改造種車を除き全て退役、183-1000は「あずさ」及び房総特急に転用される。
② 「はくたか」は列車そのものを廃止。
③ 「いなほ」は秋田発着の2往復を廃止。青森発着の1往復を存置し、列車名を「鳥海」に変更。
④ 夜行急行「鳥海」を格上げ・寝台列車化し寝台特急「出羽」を新設。
⑤ 急行「ゆけむり」の一部を185系特急「谷川」に格上げ、合わせてスキーシーズンなどの多客期に水上-越後湯沢・石打まで延長運転。
⑥ 「新雪」は存置。

「57.11」の時点では、新幹線の上野-大宮間が未開業のままで、同区間は「新幹線リレー号」による継走となる、極めて変則的な形態でしたが、それでも新幹線の速達効果は目覚ましいもの。これでは、上越特急劇場の主役として、その名声と栄華をほしいままにしてきた「とき」ですらも、ひとたまりもありません(①)。また、大宮-長岡間で新幹線と並走する「はくたか」も、並走の距離が「白山」に比べて長かったためか、こちらも全廃の憂き目に遭っています(②)。ただ、この時点では「白山」は3往復とも存置され、しかもグリーン車を2両から1両に変更し食堂車を復活させたため、「白山」と比べた場合、その明暗は際立っていました。
全廃された「とき」「はくたか」に対し、「いなほ」は青森発着の1往復のみが存置され、なおかつ食堂車の連結・営業も継続されました。ただし、「いなほ」の名称は、新潟発着の新幹線接続特急(実質的には新潟-秋田間を走っていた急行『羽越』の格上げ)に召し上げられたため、愛称を「鳥海」と変更しています。新幹線との並走距離は「はくたか」よりも長いはずですが、それでも残ったのは、当時の庄内地区から東京への需要が大きく、2度の乗換えを嫌う層に配慮した結果でしょう。
それでは上越特急の昼行列車は「いなほ」改め「鳥海」のみになってしまうのかといえば、そんなことはありませんでした。この改正で、それまで165系を使用して運転されてきた急行「ゆけむり」が185系に置き換えられ(ただし185系自体は、昭和56年末ころから順次導入され急行『ゆけむり』などに運用されていた)、特急「谷川」となりました。そしてその「谷川」、急行時代から継続していた越後湯沢・石打への多客期の延長運転も行うようになりました。つまりこれは、臨時列車とはいえ上越特急劇場に新たなキャストが登場したということです(⑤)。さらにスキーシーズンに運転される「新雪」も、この時点では存置されました(⑥)。このあたりは、大宮乗換えを余儀なくされることに対する埋め合わせではなかったかと思われます。
以上は昼行列車ですが、夜行列車に目を転じると、「出羽」という、新たなキャストの出現がありました(④)。これは上野-秋田間を上越線・羽越本線経由で走っていた急行「鳥海」の格上げで、24系のブルトレ編成に置き換えられました。他方、これによって新潟・酒田方面への夜行列車からは自由席車がなくなってしまったため(上野-新潟間の夜行『佐渡』もこのときに廃止されている)、利用客からの少なからぬブーイングがあったことも事実です。

さて、「とき」の廃止で、遂に電車特急の始祖・181系が退役することになりました。151系唯一の生き残りとして名を馳せたモハ181-29も、遂に波瀾万丈の現役生活に幕を下ろします。他にも、元161系の車は勿論、経年20年に満たないはずの100番代車も容赦なく淘汰されています。
それでも一部の車両は、他系列への編入改造を施されて現役を継続することになります。
まず、「ゴー・サン・トオ」で登場したサロ181-1000・1100は、当初の予定どおり485系に編入されますが(サロ481-1050)、驚いたのはサロ181-100とサロ181-1050。これら車両は新幹線開業と同時に退役するはずだったのですが、あにはからんや、東海道線普通列車に連結されるグリーン車として再利用が図られ(サロ110-300)、生き延びることになりました。クハ180とクハ181-100の各1両も、485系への編入改造が施され(クハ481-500)、こちらは九州に転じていきました。これらの車両が有効活用された事実は、当時の国鉄のなりふり構わない状況を如実に表しているように思います。
そして「とき」を地獄から救った救世主・183-1000ですが、こちらは新幹線開業後には伯備線の「やくも」に転用される計画がありました。しかし「やくも」には381系が投入され、実際の転用先は長野と幕張となりました。長野へ転じたものは、12連の大編成を維持したまま「あずさ」に充当されましたが、幕張へ転じたものは、先頭車にATC搭載の改造などを施したり、短編成化(『57.11』では、房総特急にグリーン車なしの6連が出現した)されたりするなど、「とき」時代の大編成は見られなくなっています。それでも当時の183-0と同じグリーン車入りの9連を組み、「さざなみ」「わかしお」に充当されたものもありました。

列車名としての「とき」は、新幹線の愛称に転じることになりました。既に上野-新潟間の「エル特急」として、その地位を確固たるものにしていた「とき」ですから、このころになると、流石に「絶滅寸前の動物の名称を新幹線の列車名に冠するのはフンダララー」などという声は聞かれなくなりました。
現在では、「とき」は上越新幹線の新潟発着列車の愛称ですが、当時は速達タイプと各駅停車タイプで列車名を分けており、「とき」は後者の愛称として登用されました。それでは速達タイプの列車名はといえば、地域との関連性もかつて走っていた在来線列車との関連性も感じられない「あさひ」。この愛称は新潟-山形-仙台間の急行列車の愛称でしたが、急行列車のそれが「朝日山地」からの命名であるのに対し、新幹線のそれは「サンライズの朝日」という意味の命名と、当時の国鉄当局は説明していたように思います。当時の管理人は、なぜ「いなほ」にしなかったのだと思ったものです。取って付けたような「あさひ」よりも、「いなほ」の方がふさわしかったような気がしますが。

ともあれ、「とき」は新幹線に活躍の場を移し、「はくたか」は「白山」に一本化される形で消え、「いなほ」は新潟発着の新幹線接続特急に装いを改め、いずれも上越特急劇場からは姿を消しました。
「57.11」では、昼行特急は定期列車としては「鳥海」のみとなり、そこに臨時「谷川」「新雪」が加わり、夜行特急として「北陸」「出羽」が走るという形態になりました。

次回は、「最後の上越特急」となった「鳥海」の歩みを取り上げます。

-その11へ続く-


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4315

Trending Articles