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4386.【祝・複々線供用開始】3.17ダイヤ改正前夜の各駅を見る その2 梅ヶ丘駅

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世田谷代田から各駅停車に乗って梅ヶ丘へ。とりあえず登戸を目指しますが、まずは梅ヶ丘駅の様子を見ておこうと思いました。

そこで、乗車してすぐ最前部に陣取り「かぶりつき」を敢行。

 

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世田谷代田を発車

 

発車すると程なく地上に出ます。

 

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分岐器は切断されている

 

3月2日までは、右側の急行線からホームに面した緩行線へ分岐していたため、分岐器が設置されていました。今日見たところ、分岐器は緩行線・急行線とも残っていますが、その間を結ぶ線路が切断されていました。

上りホームから撮影したのがこちらの写真ですが、分岐器が残っているものの、渡り線が切断されているのがお分かりいただけるかと思います。

 

確かに渡り線が切断されている

 

こちらは昨年9月に撮影した写真。このころは分岐器が現役で、外側の緩行線はまだ供用開始してはいませんでした。

 

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分岐器が開いているのが分かる(以前の記事からの転載)

 

ところで、梅ヶ丘駅の新宿寄りは、上下とも使っていません。それは、この位置に分岐器があり、車両がホームと干渉してしまうから。そのため、この部分だけはホーム縁部のタイルが貼られていません。

 

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分岐器を使わなくなってもタイルが無い状態は変わらず

 

このように、新宿寄りに使っていない部分が存在するため、梅ヶ丘駅の小田原方には、20m車の半分くらいの仮設ホームが設置されています。この仮設ホームのおかげで、8連の停車に必要なホーム有効長を確保できるわけで。

 

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明らかに仮設であることが分かる

 

この仮設部分は、3.17ダイヤ改正と同時に使用停止になるとのことですが、前日(16日)の夜の終電発車後、分岐器の部分のタイルをはめて整備するのでしょう。それで梅ヶ丘駅でも10連が停車・客扱いできるようになります。

 

このあとは喜多見駅にしばしの寄り道をし、さらに登戸へ向かいました。

 

おまけ。

LED搭載車両の側面表示。

 

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フォントが変わった

 

以前の小田急の3色LEDだと、明朝体だったような気がしますが、今日見たらゴシック体になっていました。やはり、ゴシック体の方が視認性に優れているんでしょうか。そして列車種別の表示も、これまでの「各停」から「各駅停車」に。しかしこれ、各駅停車の表示がやや窮屈なような。

 

次回は登戸駅を取り上げます。


4387.【祝・複々線供用開始】3.17ダイヤ改正前夜の各駅を見る その3 登戸駅

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各駅停車を乗り継いで、多摩川を渡って登戸へ。

登戸駅では、それまで使用されていなかった1番ホームの使用が開始され、これにより複々線区間は名実ともに登戸までになりました。以前は多摩川の橋梁の上で急行線と緩行線が合流していたものですが、これで列車を捌く能力が向上したことになります。もっとも、それなら向ヶ丘遊園まで伸びた方がいいのではないかと思いますが…。

 

…それはさておき。

 

こちらが、1番線に列車が在線していることの証拠写真その1。

 

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確かに1番線に列車がいる

 

以前はこうでした(こちらの写真は1月19日に撮影)。2点の写真をノーキャプションで。

 

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このころは、確かに線路は敷かれていましたが、まだ仮設の柵が設けられ、供用されていませんでした。それが3日の初電から晴れて供用開始となりました。

 

登戸駅1番線に列車が在線している証拠写真その2。

 

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確かに列車がいる

 

扉が開いていますから、客扱い中であることもお分かりいただけるかと。

 

今後は、登戸駅1番線で優等列車を待ち合わせる各駅停車が見られることになるのでしょうか。多摩川橋梁の上で停車する可能性がなくなっただけでも、大きな改善だと思います。

 

さて、登戸駅といえば、藤子不二雄ミュージアムの最寄り駅。

そのためか、藤子不二雄漫画のキャラクター総出演のパネルと、「ドラえもん」に出て来る「どこでもドア」を模したパネルが並んでいました。

 

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藤子不二雄作品オールスター

 

そしてこちらが「どこでもドア」。

 

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「ドラえもん」の秘密道具の中では人気が高い

 

所謂「秘密道具」の中では人気の高い「どこでもドア」ですが、こんなものがもし現実にあったら、あらゆる交通手段は必要なくなってしまいます。当然鉄道も(^_^;)

管理人は「タイムマシン」が欲しいですけど。あれに乗って、東海道新幹線開業前の世界に行ってみたい。

 

…管理人の個人的な妄想はさておき。

 

最後に今回のおまけ。

その1。「急行」表示のJRのE233-2000。

 

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日中は「急行」としては走らなくなる

 

現在の千代田線直通列車は、日中は多摩線方面への直通だけですが、3.17ダイヤ改正以降は多摩線へは行かなくなります。また日中には主に「準急」として走るようになるため、写真のような「急行」表示を出して白昼堂々走る姿は見ることができなくなります。

 

おまけその2。

小田急の一般車は現在、前面に3.17ダイヤ改正をアピールするヘッドマーク(?)を掲げています。

 

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ダイヤ改正のアピール

 

登戸駅には、快速急行全列車停車の広告が大々的に貼り出されていました。そうなると、東急としては中央林間からかなりの利用者が小田急に吸い出されそうですが、東急が小田急の3.17ダイヤ改正に対して、何か対抗的な宣伝を行っている形跡はありません。もしかしたら、東急は小田急にある程度乗客を吸い取ってもらいたいと考えているんでしょうか。

 

登戸駅では滞在時間数分でトンボ帰り。今度は下北沢駅を目指し、同時に供用を停止した世田谷代田駅の急行線上のホームの観察を試みます。

 

【取材日 平成30年3月8日】

 

◇関連記事

№4339.ダイヤ改正と共に去りぬ その1 多摩線を走るJR・メトロの車両

№4340.ダイヤ改正と共に去りぬ その2 登戸通過の快速急行

4388.【祝・複々線供用開始】3.17ダイヤ改正前夜の各駅を見る その4 下北沢駅(前編)

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複々線供用開始後の各駅を見るシリーズ、今回はいよいよ下北沢駅です。下北沢駅は写真の点数が多いので、前編・後編に分けることにいたします。

ちなみに、前の記事でちょこっと予告した、通過する電車から世田谷代田駅の仮設ホーム跡を眺める件ですが、この日(取材日・平成30年3月8日)は雨模様でガラスが曇っており、何が何やら分かりませんでした(´・ω・`) 写真の撮影にも失敗しましたので、写真はありません。ごめんなさいm(__)m

 

…気を取り直して、参ります。

 

まずはこちらをご覧ください。これは、上層の緩行線ホーム。

 

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完成した

 

暫定地下化完成時には、下北沢駅は急行線のみの開通でしたので、複々線供用開始まではこの場所は通路、ないし踊り場でした。

昨年9月の様子はこちら↓

 

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工事用の囲いで囲われていた(☆)

 

しかしそれでも、線路などは既に敷かれていました。

 

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既に線路は敷かれ、砂利も撒かれていた(☆)

 

上の2枚の写真を撮影した場所と殆ど同じ場所から撮影した写真。

 

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これは8連各停が停車中

 

下り列車の場合、6・8連だと新宿寄りに停車するため、小田原寄りにはこのように空白ができます。ダイヤ改正以降、このホームに千代田線直通列車が発着するようになると、この写真の列車が停車していない位置まで列車が来ます。

 

こちらは、↑の写真を撮影したのと同じ立ち位置から、上り列車を望んだもの。

 

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こちらは小田原方に寄って停車する

 

左の階段は急行線ホームに通じる階段です。

 

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紙が貼られている?

 

17日のダイヤ改正からは列車体系が一新されるため、それに備えて暫定的な表示にしているのでしょう。改正以降は急行線ホームには準急が発着しなくなるはずなので。

 

ところで。

ふと気になって、急行線専用となった下層ホームの駅名標を見に行きました。というのは、両隣の駅がどのように表記されているのかに興味があったから。もしかしたら、新宿方は東北沢ではなく代々木上原、小田原方は世田谷代田ではなく経堂となっているのではないかと思ったのです。

 

それでは実際にはどうなっているかというと…。

まず下りホームから。

 

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こちらは世田谷代田になっている

 

あら(^_^;) 経堂じゃないんだ。

それでは上りホームは…。

 

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こちらも東北沢で代々木上原ではない

 

こちらも代々木上原じゃない。

 

確かに隣駅という点ではこの表記の方が正しいのですが、急行線ホームでは絶対に世田谷代田・東北沢の両駅に停車する列車は停車しません(というか物理的に不可能)から、経堂・代々木上原でもいいかと思ったのですが(^_^;)

このあたりは、事業者でも差異があり、例えば東武の場合だと急行線は次の停車駅を記載してあります。確か西新井駅の場合、両隣の駅は五反野・竹ノ塚ですが、それぞれ北千住・草加だったような。JRの中央快速線も然り。

 

以上で前編は終了。

後編は、ホームの様子以外の案内表示などを取り上げようと思います。

 

◇関連記事

№4208.「HELLO NEW ODAKYU」その進捗やいかに? その2 下北沢駅編

4389.【祝・複々線供用開始】3.17ダイヤ改正前夜の各駅を見る その5 下北沢駅(後編)

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それでは下北沢駅の後編をいかせていただきます。

 

まずは地上の案内表示。急行線ホームと緩行線ホームが上下に分かれているので、案内にも気を遣うところ。

 

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「地下〇階」という表示に注目

 

今は緩行線ホームの3・4番線が各駅停車だけの発着なので、まだわかりやすいですが、3.17ダイヤ改正以降に準急などが緩行線ホームに発着するようになると、一気に煩雑さが増すような気がします。まして、下層階の急行線ホームが1・2番線で上層階の緩行線ホームが3・4番線というのは、利用者が地下に入って行って先に到達するホームの方が数字が大きいことになり、これは混乱の元にならないんでしょうか。暫定開業の際、最初から3・4番線にしておいた方がよかったのではないかと思いますが、こればかりは今更言っても仕方ありません(^_^;)

 

暫定開業の際に出来上がっていた急行線ホームに通じる通路には、これも3.17ダイヤ改正を見据えたものなのか、紙が貼られて改正実施までの暫定的な表示となっています。

 

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改正後は急行線ホームには快速急行と急行しか停車しなくなる(以前の記事から転載)

 

急行線ホームへの直通エスカレーターの案内もこのとおり。

 

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こちらは種別部分だけ紙が貼られている

 

昨年9月の時点での案内表示はこちら↓

 

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シンプルなものだった(以前の記事から転載)

 

こちらが複々線供用開始後の表示↓

勿論、前の写真と同じ場所です。

 

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こちらも種別部分だけ紙を貼っている

 

それでは緩行線ホームに通じる通路の案内表示はどうなっているかというと…。

 

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こちらは青色

 

急行線ホームの案内表示がオレンジ色なのに対し、こちらは鮮やかな青色で、色の対比が際立っています。

 

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こちらも紙を貼っている

 

これも暫定的ということなのでしょう。

 

これで下北沢編は終了。

次回は東北沢駅を眺めて終了とします。

4390.【祝・複々線供用開始】3.17ダイヤ改正前夜の各駅を見る その6 東北沢駅

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この記事のシリーズの最後は、東北沢駅。

この駅は、島式ホームとなっている緩行線の外側を急行線が走り、しかも緩行線と急行線の間に壁がないため、ホームから急行線を走る列車が見えるという、かなり特徴的な構造になっています。

以下、完成後(平成30年3月8日撮影)の写真。まずは下り線。

 

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急行線が外側に見える

 

暫定開業から複々線供用開始後までは、こんな光景が見られました。

 

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仮設ホーム

 

本設ホームから張り出す形で仮設ホームを組み、そこに停車して客扱いをするということをやっていました。しかしこの仮設ホーム、今見ると仮設感満点ですね(^_^;)

これは昨年9月の写真ですが(したがってこの写真は以前の記事からの転載です)、半年前にはまだ本設ホームはコンクリが打ちっぱなしだったわけで、半年の間に工事が進捗し完成したという過程がよく分かります。

 

上り線側も完成。

 

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こちらは上り

 

上下ともども、これでようやく完成形になったわけです。

 

それでは、外側の急行線を通過していく列車をご覧に入れましょう。まずは下り線から。

これは快速急行(だったと思う)ですが、通過までの3点の写真を一気通貫、ノーキャプションでどうぞ。

 

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なかなか見応えがある通過シーンでした。

 

こちらは上り列車。千代田線直通の急行ですが、ダイヤ改正以後は千代田線直通列車が急行線を走るのは朝夕のラッシュ時のみになるので、日中に急行線を走る千代田線直通列車、それもメトロ車やJR車は貴重な光景になります。

こちらも一気通貫・ノーキャプションで。

 

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朝晩しか見られなくなるとはいっても、地下だからあまり有難みはないか(^_^;)

 

さて、そろそろ総括を。

小田急線の複々線化の構想自体は、既に50年前からあったものですが、それがまさか実現することになるとは…ということで、沿線住民ではない管理人にとっても、驚きと感慨があります。あまり薄っぺらなことは言いたくないのですが、やはり「信じ続ければ達成できる」ということなのかとも思います。

しかし、そもそもなぜ複々線化が必要だったかと言えば、当初計画の千代田線(都市計画9号線)の喜多見接続を代々木上原接続としたこと。これによって喜多見-代々木上原間の線路容量が逼迫し、複々線化の必要が生じました。これは勿論、都心から遠い喜多見で都心方面への利用客を吸い出されてはかなわないと小田急の幹部が考えたからに他ならないのですが、その代償として代々木上原-登戸間の複々線化という、膨大な設備投資を余儀なくされることにもなりました。さらに、反対派の沿線住民から民事訴訟を起こされることにもなり、これも工事の長期化の要因ともなりました。千代田線の喜多見接続という当初計画に関してさらに言えば、多摩線の当初計画では新百合ヶ丘分岐ではなく喜多見分岐となっていて、それならそもそも複々線化が必要とならなかった可能性もあります。このあたりはことごとく歴史のifですが、もし千代田線が喜多見接続なら、複々線化は喜多見-新百合ヶ丘間だけで済んだのではないかとも思えます。どちらが良かったのかは分かりませんが。

それでも、今回の複々線化完成により、線路容量が劇的に増大したことは事実。それにより大幅な輸送力増強がなされるのですから、そこは素直に評価すべきだと思います。

 

半世紀近くにわたる不断の努力を重ね、遂に完成にこぎ着けた複々線。

小田急の皆さん、工事に携わった皆さんに、改めて心からの敬意を表したいと思います。

4391.【まだ残っていた】中目黒駅2番線の乗車位置目標【直通運転終了5年】

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小ネタですが、備忘録として。

 

写真は、中目黒駅2番線に残る、乗車位置目標です。正面の「〇〇〇」がそう。

 

しかし、5年前までは確かに存在した、中目黒駅2番線から発車する東横線の電車、つまり日比谷線からの直通電車は、現在は運転されなくなっています。そればかりか、現在日比谷線は車両規格の変更の真っ最中で、20m4扉の13000系の導入が続いています。この「〇〇〇」の乗車位置目標は、18m3扉時代のもの。いずれにしても、現在では全く意味がなくなってしまいました。

 

今や「無用の長物」に堕してしまったこの表示、いつまで残るのでしょうか。

 

※ 当記事は日比谷線の話題のため、カテゴリを「東急」ではなく「営団地下鉄・東京メトロ」にしています。

4392.都バス・春の改編祭り

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東京都交通局では去る8日、バス路線の改変に関するアナウンスを行いました。

今回は5年前のような大規模なものでもなければショッキングなものでもなく、どちらかといえば小幅なものと言えますが、それでもつぶさに見ていけば、それなりに趣味的な面白さはあるものでして。

 

平成30年路線変更等に関するアナウンスは → こちら

ダイヤ改正に関するアナウンスは → こちら

 

以下、内容を箇条書きにします。詳細は上記リンク先をご覧ください。なお、かっこ内のアルファベットは、営業所コードです。

 

1 運行系統の新設

 (1) 直行02 豊海水産埠頭→東京駅八重洲口(平日朝4便のみ、東京駅方向のみ運行)担当:江東(L)

 (2) 急行05直行便(直行03) 錦糸町駅前→新木場駅前 →日本科学未来館(土休日午前中5便、日本科学未来館方向のみ運行)担当:江東(L)

2 運行パターンの新設

 (1) 池86 池袋駅東口から池袋サンシャインシティまで一部延伸 担当:早稲田(T)

 (2) 錦18 平日日中のみ新木場駅前から国際展示場駅前まで延伸 担当:江東(L)

 (3) 錦27 平日朝2便のみ東大島駅前小松川口→錦糸町駅前行きの運行を新設 担当:江戸川(V)

 (4) 両28出入 両国駅前~日曹橋経由~臨海車庫の区間を新たに運行(1往復のみ)担当:臨海(R)

3 運行系統の統合

 井92と直行01を統合

4 運行系統の変更

 (1) 品91・深夜07 品川駅の発着を港南口に統一し、品川シーサイド駅経由に変更

 (2) 品93 「品川駅高輪口~天王洲橋」区間(八ツ山橋踏切)について、平日17時頃~21時頃も迂回運行を実施

 (3) 池86出入 池袋駅・渋谷駅→早稲田行の経路を甘泉園公園経由から早大正門経由に変更

5 運行パターンの廃止

 早81出入 小滝橋車庫~早大正門の運行を廃止

6 運行系統の短縮

 平28 平井駅前~平井操車所までの運行を廃止

7 系統の移管及び共管の変更

 (1) 急行06 臨海(R)から港南(Y)へ移管

 (2) 門33 江東(L)単独から江東と南千住(K)の共管に変更

 (3) 里48 南千住(K)・北(N)・巣鴨(P)の共管からKが外れ、千住(H)・北(N)・巣鴨(P)に変更

 

これらのうち、管理人が趣味的見地から注目しているのが、2の(1)(4)、5、と7の(2)(3)。

 

まずは「池86」の池袋サンシャインシティ乗り入れが復活するということ。これは、平成2(1990)年に東池袋四丁目折返しになって以来、実に28年ぶりの復活ということです。

 

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「池86 池袋サンシャインシティ」が復活する

 

写真のH代は既に退役してしまい、都営バス全体でも幕式の行先表示の車は全廃されてしまったため、この幕が復活することはなくなってしまいました。しかし、フルカラーでの表示がどんな形になるのか楽しみです。

復活した理由は、豊島区役所の移転でしょう。豊島区役所最寄りの東池袋一丁目までの延伸を目論んだところ、折り返しができるのがサンシャインシティだったということではないかと思われます。

あとは「両28」の出入庫便が1往復に限り、葛西橋経由から日曹橋・清砂大橋経由に変更されること。「両28」の出入庫便は、旧葛西橋以遠は西葛西駅まで「亀29」と同じルートをたどるのですが、これが日曹橋・清砂大橋経由となると、日曹橋までは「都07」と同じルートで、日曹橋l交差点で左折するのでしょう。ということは、この便は西葛西駅を通らないことになります。

 

路線…というか運行パターンの廃止として、管理人が個人的に感慨深いのは、やはり「早81」の早大正門~小滝橋車庫間の出入庫便が廃止されること。これはかつて「早81」が小滝橋の担当だったころからの運行パターンですが、その後同系統が小滝橋から新宿へ移管されたあとは、存在意義が曖昧になっていました。あるとすればそれは、高田馬場駅~小滝橋車庫間から早大正門への需要ですが、便数が少なく利用が限られるのでは、廃止されるのも当たり前でしょう。むしろ今までよくぞ生き永らえたとすら思えます。

 

そしてやはり、趣味的な関心事は路線の移管と共管の変更。まず「急行06」ですが、この系統は今回、所管営業所が臨海から港南へ変更されます。これによって、港南の車は、門前仲町や豊洲へ顔を出すようになります。

しかしそれよりもインパクトが大きかったのは、「門33」に南千住が共管営業所として加わること。

 

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もしかしてこれの有効活用?

 

写真は「うなぎ」「もやし」こと日野HRですが、もともとが中型車ベースで車幅も狭いため収容力に難があり、混雑路線では使われていません。実は、南千住にも日野HRの配置があるのですが、現在では持て余していると思われ、もしかしたら「門33」にはこれが優先的に充当されることになるかもしれません。かつての「門33」には、日産ディーゼルのスペースランナー中型車が充当されていましたから、日野HRの充当もおかしくないと思います。

そして日暮里舎人ライナー開業後も、いざというときの代替手段として存置されている「里48」。その「いざというとき」に備えてのことか、1系統としては異例ともいえる3営業所の共管だったのですが、今回の改編で、3営業所共管の体制は変わらないものの、その一角を占めていた南千住が抜け、代わりに千住が入ることになりました。

 

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南千住OUT、千住IN

 

「里48」の担当としては、以前に千住が名を連ねていたことがあったそうですから、今回は復活ということになります。

 

その他、停留所の廃止や停留所名の変更などがありますが、これらについては上記リンク先をご覧ください。

 

管理人が楽しみなのは、「門33」にK代の三菱エアロスターが充当されること。あれが清澄通りをかっ飛ばす姿は、想像しただけでにやけてしまいます(^_^;) でも実際には、日野HRの充当の機会が多いような気がしますが。

 

※ 当記事で使用している写真は、全て以前の記事からの転載です。

4393.路地裏の超特急~京急「快特」物語 その7 座席定員制の快特~「京急ウイング号」登場

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その6(№4382.)から続く

 

1周遅れのアップでございます。

 

2000形デビューからちょうど10年を経た平成4(1992)年、京急に座席定員制の列車が誕生します。

その名は「京急ウイング号」。愛好家や利用者は単に「ウイング号」と呼びならわしますが、正式名称はあくまで「京急」を冠にした「京急ウイング号」です。そしてこの列車は、利用者や愛好家からは、快特よりも上位の列車と認識されていることが多いようですが、実際の運転管理上の列車種別は、あくまで「快特」なのだとか。よって、「京急ウイング号」(あくまで正式名称)を当連載の中で取り上げるのも意味があるということになります。

 

① 運転区間は品川-京急久里浜。

② 1805発の1号から20分おきに、2105発の8号まで平日の下りのみ8本。

③ 停車駅は品川-上大岡間無停車、上大岡以遠は快特と同じ停車駅。

④ 列車は着席保障のため座席定員制を採用、品川から乗車の場合のみ着席料金200円を徴収、上大岡以遠から乗車の際には着席料金は不要。

⑤ 車両は2000形を使用、品川駅では3番線に発着。

 

ご覧いただいてお分かりのとおり、「京急ウイング号」は、平日の夕方から夜にかけて下りのみ運転される座席定員制の列車ですから(①②⑤)、既に国鉄~JRで特急車両を利用して運転していた「ホームライナー」と同じ発想です。つまり「京急ウイング号」とは着席通勤の需要に応えた列車ということ。と同時に、2扉クロスシート車は3扉ロングシート車に比べてどうしても乗降性に劣るため、そのような車両を一般列車に入れないことで、着席通勤の需要を充たすこととラッシュ対策を両立させたわけで、実に巧妙な車両運用だと思います。しかし、平日夕方上りの普通車(各駅停車)が、折り返し「京急ウイング号」に充当される編成の回送列車に追い抜かれるのには参りましたが(管理人の実体験)。あのような「回送列車に抜かれる普通車」って現行ダイヤでもあるんでしょうか。あれを見たとき管理人は「上り快特に充当すればいいのに」と思っていましたが、回送で持っていくのは折返しの整備が大変だからでしょうか?

「京急ウイング号」は当初座席指定ではなく、運転開始からつい最近まで座席定員制を採用していましたが(④。現在は座席指定制)、その理由は、座席をコンピューターシステムに収容することが面倒だったからでしょうか。

それ以上に、愛好家的視点から見て最も驚かされたのは、京急川崎と横浜を通過し、品川-上大岡間を完全にノンストップとすること(③)。これは言うまでもなく、品川・都営線方面からの乗客をできるだけ南に引っ張るという狙い。「京急ウイング号」運転開始の11年前、朝の上り通勤快特が運転を開始しましたが、この列車の狙いも「横浜以南からの乗客をいかに品川へ引っ張るか」という「京急ウイング号」の狙いの裏返しといえるものでしたが、夕刻~夜間の下り「京急ウイング号」の登場により、京急のこの戦略もようやく完成した感があります。

もっとも、京急川崎・横浜両駅の無停車は、列車ごとの「遠近分離」の目的もあり、その後通常の快特が京急蒲田に停車するようになっても、「京急ウイング号」は京急蒲田には停車するようにはならず、依然として品川-上大岡間のノンストップ運転は維持されています。

ただし、品川-上大岡間ノンストップとはいえ、「京急ウイング号」のスピードが際立って速いわけではなく、あくまで通常の快特と同レベル。平成7(1995)年から行っている快特の120km/h運転も行われていません。しかし「京王ライナー」の明大前や「S-Train」の自由が丘・武蔵小杉とは異なり(これら列車の場合、挙げた各駅には運転停車。信号システムの都合と思われる)、京急蒲田・京急川崎・横浜の3駅とも、低速とはいえ実際に通過します。

なお、「京急ウイング号」は、品川駅では行き止まりの3番ホームから発車しますが、これは都営線との直通列車の進路を妨害しないこと、在線時間を確保することが目的です。そして3番ホームに停車中は、8両編成の16ヶ所の扉のうち2ヶ所だけを開け、そこに係員が立って着席整理券をチェックします。この着席整理券、運転開始当初は乗車券と共にチェックしての入鋏、その後すぐスタンプの押捺に改められました。しかし、スタンプのインクで乗客の手が汚れるという苦情があったこと、着席整理券を自動改札機に投入してトラブルになったこと、その他の要因から、平成11(1999)年5月から、着席整理券を係員が回収するシステムに改められました。10年前の平成20(2008)年8月、管理人は「ウイング号」に体験乗車したことがありますが、そのときも着席整理券は品川駅での乗車時に係員に回収されました。

 

「京急ウイング号」は好評を博し、運転開始翌年の平成5(1993)年4月1日からは、4号以降が三崎口駅まで延長されました。京急久里浜駅-三崎口駅間は各駅停車とされましたが、当時の快特は、野比(現・YRP野比)・京急長沢の両駅を通過していたため、この区間でのみ停車駅の逆転現象が起こっていました。

その後、平成8(1996)年には2本増発、平成11(1999)年7月のダイヤ改正で快特の久里浜線内が各駅停車になったため、「京急ウイング号」も久里浜線内各駅停車となり、快特の停車駅との逆転現象が解消されました。さらに平成22(2010)年、快特が金沢八景に停車するようになったことから、「京急ウイング号」も同駅停車に改められています。

 

前後しますが、平成10(1998)年から2000形の後継車・2100形の投入に伴い、「京急ウイング号」にも2100形が進出、同年3月30日から1・3・8・10号が2100形での運転となりました。その後も2100形の追加投入と共に同形による「京急ウイング号」が増加、遂に平成11(1999)年4月21日を最後に、「京急ウイング号」は全て2100形に統一されました。ただし、車両運用の都合で、その後も何度か2000形による代走はあったようです。

その後は平成23(2011)年に発生した東日本大震災に伴う節電ダイヤにより、「京急ウイング号」も一時期運転休止を余儀なくされたものの、その年の4月には運転を再開しています。

 

平成27(2015)年には、それまで下りだけだった「京急ウイング号」に、三浦海岸始発の上り列車が登場します(モーニング・ウイング号)。運転本数は、平日朝のラッシュピーク前とピーク後の各1本の計2本。停車駅は三浦海岸、横須賀中央、金沢文庫、上大岡、品川、泉岳寺で、品川以外の駅は乗車のみの取り扱いとなります。「モーニング・ウイング号」は、「京急ウイング号」や通常の快特とは停車駅が異なっているためか、運転取扱い上は快特とも「京急ウイング号」とも別の列車種別とされています。

そして「モーニング・ウイング号」運行開始に伴い、着席整理券料金を従来の200円から300円に変更、同時に名称も「Wing Ticket」に変更されています。さらにその2年後の平成29(2017)年5月1日から、「京急ウイング号」「モーニング・ウイング号」ともに全座席指定制に変更されました。

この間の平成28(2016)年に実施されたダイヤ改正により、下り「京急ウイング号」の運行時間帯が23時まで拡大されました。本数自体は改正前と変わらず、7号以降を約30分間隔の運転とすることで、運行時間帯を繰り下げ、遅い時間の着席需要に応えています。

 

次回は、快特がダイヤの主役に躍り出た平成11年のダイヤ改正を取り上げる…と予告編ではお伝えしておりましたが、もうひとつのオールクロスシート車・600形(Ⅲ)を取り上げておこうと思います。よって、次回は600形(Ⅲ)を取り上げ、平成11年ダイヤ改正以降のネタは1回分ずつ繰り下げていきますので、よろしくご了承ください。

 

-その7に続く-


4394.路地裏の超特急~京急「快特」物語 その8 3扉クロスシート車の挑戦と挫折

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-その7から続く-

 

今回は、2100形投入や平成11(1999)年のダイヤ改正の話題に進む前に、京急の車両、特に快特に充当される車両として、外すことのできない車両を取り上げようと思います。

その車両こそが、3代目600形です。

 

3代目600形(以下『600形(Ⅲ)』又は単に600形という)は、第1陣が平成6(1994)年に登場した、クロスシート車の快適性と3扉車の乗降性を両立させることを狙った意欲作。しかもこの車両は、都営浅草線などへの乗り入れ規格である「1号線規格」を充たす車両として設計・製造されたため、この車両の概要が明らかになった当時、鉄道趣味界では「クロスシート車が地下鉄を走る!」と、かなり話題になったものです。

実は、地下鉄を走るクロスシート車は、海外、特に欧米諸国ではそれほど珍しいものではありません。しかし、日本、特に東京の地下鉄の場合、混雑率が欧米諸国とは段違いだったので、床面積を食うクロスシート車の導入は非現実的と見られていました。京急による600形の導入は、果敢にもそのような常識に挑戦した、という面もあります。

600形(Ⅲ)のスペックは以下のとおり。

 

① 車体はアルミ合金製・塗装。

② 塗装は2000形に倣った赤地に窓周り白のツートン。

③ 先頭形状は丸みを帯びた「新京急顔」、1500形まであったアンチクライマーはなくなる。

④ 制御方式は1500形VVVF車に倣い、VVVFインバーター制御の6M2T。

⑤ 扉部には2000形に倣い補助椅子を設置。

⑥ 座席は扉間・車端部ともボックス席、運転台真後ろの席は2人掛けのクロスシート。

⑦ ボックス席の一部を可変座席「ツイングルシート」とし、ラッシュ時は収納、閑散時及び土休日は展開して運用。

⑧ 快特充当時を考慮し中央扉締切機能及び締切表示装置を搭載(2次車以降は装備せず)。

⑨ 車椅子スペースを京急の新造車としては初めて導入。

⑩ 車号は800形(Ⅱ)と同じ、3桁にハイフンつき数字を付けて号車を示す。4連は十の位を5として8連と区別。

 

性能に関する事項は既に色々なところで語られていますので、ここで詳述することはしませんが、やはり「オールクロスシートであること」は取り上げるべきでしょう。2000形ですら、運転台真後ろの席はロングシートであり、クロスシート100%は達成できませんでした。しかし、2扉車ではないはずの600形がそれを達成したのですから、面白いものだと思います。

そしてなぜ京急が「オールクロスシート」の車両を導入したのか。これには、「乗客の『個の尊重』」というコンセプトがありました。当時はバブルがはじけて景気が減速傾向にあったとはいえ、関東の他事業者では多扉車(JR東日本サハ204、営団地下鉄03系5扉車など)やワイド扉車(小田急1000形など)が続々導入されていました。当時の他事業者においては、乗降性や詰込みが優先される一方で乗客の快適性は二の次にされる傾向が強かったものです。しかし、京急は、そのような中にあってあえて正反対の方向性を持つ600形を投入することで、他事業者の動向に敢然と異を唱えたといえます。「個の尊重」というコンセプトは、言うまでもなく自家用車をライバルと位置付けたもの。600形に遡ること約10年前に2000形を導入したときに、自家用車をライバルと位置付けて開発していますが、600形についても、自家用車を意識して開発されたことは間違いなかろうと思われます。

 

そこで注目したいのが、⑦の可変座席の導入です。これは当時の鉄道趣味界では大きな驚きをもって受け止められましたが、「個の尊重」コンセプトに基づくクロスシート導入とラッシュ時の詰込みの両立を狙って導入されたものです。ラッシュ時は収納して2人掛けのボックス席として立席スペースを確保、閑散時及び土休日は展開して4人掛けボックス席として使用するというものでした。

この「ツイングルシート」、京急としては相当に気合を入れて開発したようで、実用新案まで取得していました。しかし、展開される座席の座り心地が正規の座席のそれに比べて明らかに劣ること、機構が複雑でメンテナンスが大変なこと、それによるコストが無視できないことなどから、後に常時展開した状態で運用されるようになりました。

なお、600形は、快特充当時には中央扉を締め切って2扉で運用することが想定されていて、1次車はそのような機能を実装し、実際に快特充当時に中央扉を締め切って運用したこともあったようですが、乗客からかなりの不評を買ったため、中央扉締切扱いは中止され、2次車以降には中央扉締切の機能は実装されていません。

 

600形は1~3次車が8連7本投入され、平成8(1996)年には4次車が8連1本・4連4本投入されました。

このグループはMT比率が従来の3:1から1:1となり、代わりに主電動機の出力が増強され、かつ1台の制御装置で1両の電動車を制御する方式に改められています(1C4M。1~3次車までは制御装置1台で2両の電動車を制御する1C8M)。あわせてシングルアームパンタグラフを採用しています。

内装も変更が加えられ、鳴り物入りで導入したはずの「ツイングルシート」を放棄、扉間をボックス席と片方向固定の2人掛け席のみとし、実用的な座席配置としています。

これら4次車の投入により、600形は8連8本・4連6本の合計88両に達します。600形だけで12連を組むことが可能になり、2000形が「京急ウイング号」に召し上げられる平日夕方ラッシュ時においても、600形が快特に充当されることで、帰宅時間帯の快特にもクロスシート車が充当されるようになりました。また、これまではロングシート車ばかりだった都営浅草線直通列車にも600形が充当され、こちらにもクロスシート車充当の恩恵を及ぼしています。

 

しかし、クロスシート車の宿命である「床面積(立席スペース)の狭さ」はいかんともしがたく、600形は平成17(2005)年から順次、扉間の座席をロングシート化する改造を受けました。これにより、600形の内装は1000形(Ⅱ)の初期型とほぼ同一となっています。

ロングシート化されたのは8連が先で、4連は8連が全てロングシート化された後も、快特の増結用という用途のためか、しばらくの間クロスシートのまま残っていました。4連はクロスシートのまま残るのかという期待もあったのですが、こちらも追って8連と同じロングシート化改造が施され、現在、600形は全てロングシート化されてしまいました。

しかし、8連・4連とも赤地に窓周り白のカラーリングは変更されず、ここに至って、「窓周り白はクロスシート車を表す」という建前は有名無実になってしまいました。600形は「日本ではクロスシート車は通勤輸送には適さない」という常識に果敢に挑戦した意欲作ですが、残念ながらその結果は失敗だったと言わざるを得ません。

 

600形登場の4年後、本格的な2扉クロスシート車が登場します。次回はそのお話を。

 

-その8に続く-

4395.【500系が可愛く変身】ハローキティ、今度は新幹線を制圧!【似合う?】

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(冒頭の写真は以前の記事からの転載です)

 

かつては京王線の電車を、そして京王多摩センター駅を、さらには川崎市バスを制圧したあの「猫」が、今度は新幹線をも制圧することになりました…w

 

ひと、もの、こと。つないで、結ぶ「ハローキティ新幹線」登場! ハローキティといっしょに旅しよう!

 

このたび、西日本旅客鉄道株式会社は株式会社サンリオの人気キャラクター「ハローキティ」とコラボレーションし、西日本の地域活性化をめざすプロジェクトを実施いたします(以下略)

 

JR西日本公式より)

 

詳細は上記リンク先をご覧いただきたいのですが、私たち鉄道愛好家にとって最大の関心事は、この「ハローキティ新幹線」こと500系V編成のカラーリングがどうなるか。

リンク先などにはそのカラーリングのイラストが出ていますが、当ブログにそれを貼ると、恐らく著作権法上の問題が生じると思われるので、こちら(PDFファイル注意)に行ってくださいとしか言えません(^_^;) 

しかし、これは強烈ですわ…キティちゃんを象徴するリボンと、濃淡ピンクのラインですか…(^_^;) 管理人にとっては、500系は「のぞみ」で300km/hでぶっ飛ばしていたころの姿が印象に残っているので、そのスピード感と、キティちゃんのほのぼのしたイメージとは、どうしても馴染まないのですよ。「仕事を選ばないこと」、他のキャラクターやシチュエーションとの親和性の高さに定評があるキティちゃんですが、流石にこれは…と思ってしまいます。何だか、F1マシンやスポーツカーにキティちゃんの装飾を施したように見えてしまいます。「エヴァ」のときは、500系のフォルムと似合っていて、なかなかかっこよかったのですが。

誤解無きようお断りしておきますが、管理人はアンチキティちゃんではありません。ただ、ハローキティのカラーリングは、500系よりも700系「レールスター」編成の方が似合うのではないかという気がする、ということです。つまり「似合う・似合わない」の話をしている、と受け止めていただければ。

 

とにかく、現車を見てみたいところです。

 

【おことわり】

管理人は「ハローキティ」その他のサンリオキャラクター及び「エヴァ」など一連の作品に関し、全く知識を有しておりませんので、これらに関してコメントを頂戴いたしましても、管理人からは有意な返答をいたしかねます。悪しからずご了承ください。

4396.ネタ編成の「バトル・ロワイヤル」@3.12京急川崎駅

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今回から、3月12日の「京急充」の記事を順次アップして参ります。

 

管理人は、この日、「三浦半島1dayフリーきっぷ」を使い、三崎口・油壷などを訪れてきました。

管理人は東急沿線民なので、それなら横浜発着にすればいいのですが、ある理由から、この駅からスタートすることに。

 

もはや貴重品の「パタパタ」。

 

かつては国鉄~JR・私鉄を問わずどこでも見られた「パタパタ」、反転フラップ式の表示器ですが、最近はLEDなどの電光掲示に取って代わられ、貴重品になりつつあります。確かに、電光掲示の方が表示の自由度は格段に上ですからね(´・ω・`) しかしこれ、「ザ・ベストテン」にリアルタイムで熱狂した世代としては、この「パタパタ」に対する憧憬はやはり強いのですよ。

 

この「パタパタ」がある駅とは、京急川崎駅。

何故京急川崎駅からスタートしたかというと、「京急120年のあゆみ号」が大師線で稼働していると踏んだから。「京急120年のあゆみ号」は4連であり、大師線での稼働が見込まれると思ったからです。

果たして、それは正しかった。

京急川崎駅2番ホームに、「京急120年のあゆみ号」が在線していたのですが、管理人がカメラを向けようとすると、無情にも動き出してしまいました…(´・ω・`)

 

しかーし!

天は我を見捨てず!!

 

動き出したのは入庫ではなく、本線とつながっている連絡線を通って、本線へ出て行ったから。

そこで一旦、六郷土手寄りの引上線に入線、そしてなぜか上りホーム(6番線)に入りました。

そのときの写真がこちら↓

 

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実は既に動き出している

 

慌てて撮りました(^_^;)

これはリベンジせねばなりません。

 

余談。

実はこのとき、管理人がこの編成を撮影しようとしていたら、駅員さんが近づいてきて「次の三崎口行き特急にご乗車ですか?」と話しかけてきました。

「次の三崎口行き特急」は8連で、この場所には停車しないためですが、実は、京急川崎駅だけではなく神奈川新町などにもド平日ながら「同業者」が何人か出ていたのですよ。恐らくは退役間近の2000形目当てなのでしょうが、撮影に伴うトラブルを予見して、明らかに疑わしいと見える管理人に、やんわりと撤収を促したのでしょう。管理人にもそのことは分かったので、駅員さんの言葉に素直に従いました。

 

ネタ編成はこれだけではありません。

 

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リバイバルカラーの800形

 

まさか800形まで一発ツモを引くとは!

この編成には何度か遭遇したことがありますが、相変わらず「ネタ車両」「レア車」に対する管理人の「引き」は強いようです。

 

そして、やってきた「次の三崎口行き特急」ですが、使用車両は何と!

 

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イエローハッピートレイン!

 

2100形の快特に乗りたかったのですが、思わず乗ってしまいました(^_^;) しかし後続の2100形の快特に乗っても、京急久里浜でこの列車に追いつくことができたので、京急川崎から乗る必要は無かったのですが…それは結果論です。

ちなみに現在、「イエローハッピートレイン」は、「幸せのキイロイトリ号」として、キイロイトリラッピングで運転されています。車内の広告もキイロイトリ・リラックマのもので埋め尽くされていました。これについては、改めて記事でご紹介したいと思います。

 

京急久里浜で2100形と並んだ「幸せのキイロイトリ号」の写真はこちら。

 

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顔立ちは同じだが色で印象が異なる

 

この顔、600形以来の丸みを帯びた「新・京急顔」というべきもので、現在の京急の車両では代表的な顔立ちとなっています。

 

しかしこの「幸せのキイロイトリ号」、先にも触れましたが、車内外ともなかなか濃いぃものでした。

 

【追記】

京急の各種「ネタ編成」に関しては、こちらのページで当日及び翌日の運用が公開されています → 特別塗装列車運行予定

4397.Free as a YELLOW BIRD~「幸せのキイロイトリ号」大解剖

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鉄道趣味界ではJRや小田急のダイヤ改正、小田急新型ロマンスカーGSE就役で盛り上がっているようですが、当ブログはあくまで我が道を参ります(^_^)

 

今回の記事、タイトルの元ネタは、1995年に発表されたザ・ビートルズの「新曲」です。ビートルズは1970年に解散していますが、1995年に未発表曲の音源を掘り起こし、当時存命だったジョンレノン以外のメンバーがリミックスして発表したものです。Free as a Bird~鳥のように自由に、ということですが、今回の「幸せのキイロイトリ号」もなかなか自由なキャラクターのようなので、タイトルを拝借しました。

 

さて、前回の記事でご案内のとおり、管理人は京急川崎駅からこの編成に乗車したわけですが、京急久里浜駅の「バカ停」のときに側面を撮影することができました。

品川方2両目の1063の側面ですが、3点の写真をあえてノーキャプションでご覧いただきます。

 

 

 

 

うーん(^_^;)

なかなか緩い雰囲気です。

 

内装は、車内広告がリラックマ関連で埋め尽くされています。

 

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品川方先頭車1064の車内

 

中吊りは全部これでした。

 

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赤と青とリラックマ

 

↑は品川方の中吊りで、車内にいて品川方を向くとこの広告だけが目に入ります。

反対側、すなわち浦賀方はこれでした。

 

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こちらは「キイロイトリ」

 

浦賀方を向くと、こればかりが目に入ります。

そして戸袋部の広告には、こんなのが入っていました。

 

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京急120周年とリラックマ15周年のコラボ

 

5月13日までのキャンペーンのようですが、公式HPを見てみたら結構大規模です(こちら)。今回は品川・大鳥居・上大岡の3駅は訪れなかったのですが、これは訪問しなければなりません(^_^;)

 

こちらは京急久里浜駅に停車中の「幸せのキイロイトリ号」。

 

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ん?

 

「京急リラッ久里浜」になってる!

 

前回記事でご案内のとおり、京急では「幸せのキイロイトリ号」などの特別塗装列車運行予定をHPで公開しています(ただし当日・翌日のみ)。ネタ編成を効率的に狙いたい諸兄姉は参考になさってはいかがでしょうか…といいましても管理人は別に京急の回し者ではありませんが(^_^;)

 

このあとはそのまま「幸せのキイロイトリ号」に継続乗車、三崎口駅で油壷行きのバスに乗り換え、久里浜線の終点になるはずだった土地へ行ってみることにしました。

 

※ 当記事は03/17付の投稿とします。

4398.幻の終着駅

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冒頭の写真は、京急三崎口駅のあまりにも有名な構造物です。久里浜線の三崎口延伸時、当時計画されていた油壺・三崎港方面への延伸を見越して、道路(国道134号)をアンダーパスする構造物を前もって作っておいたのですが、既に油壺延伸の免許は平成17(2005)年に廃止されています。このときは、京急としては再度油壺延伸を目論むつもりだったのですが、その後事実上白紙になってしまいました。

そのため、三崎口駅は三浦市の北端にあり、三浦市中心部へはバスによる継走が必要となっています。

 

というわけで三崎口駅へ…あれ?

 

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「口」の字だけが赤い

 

しかも駅名標の左には魚のような絵が。

 

こういうことでした↓

 

「三崎マグロ駅」とな?

 

何と「三崎マグロ駅」になっています。

京急は「みさきまぐろきっぷ」を発売し、三浦半島への観光客の呼び込みに余念がありませんが、まさかここまでやるとは。ってかこれ、「京急リラッ久里浜」と同じ系統なんでしょうか(^_^;)

 

列車を降りた観光客の多くは、駅前バスターミナル2番乗り場から城ヶ島行きのバスに乗り継いだため、1番乗り場からの京急油壺マリンパーク行きのバスに乗り継いだお客は、管理人を含めて思ったよりも少数でした。

バスは国道134号を南下し、油壺入口で豪快に右折(135度くらいの角度だったと思う)。15分ほどで「油壺」へ。

 

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バスや自家用車の駐車スペースが広がっている

 

別角度の写真はこちら。

 

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正面の建物は公衆便所

 

しかしここ、駐車場は広いのですが、車も少なくひっそりしています。2月のド平日だからしょうがないのかもしれませんが。周囲にもうらぶれた土産物屋のようなお店が2軒あるだけです。

 

もしかしてここが、久里浜線が目指した油壺?

だとすると、駐車場がここまで広いのも合点がいきます。ここは駅前広場になるはずの場所だったのでは…。(※)。

 

【※追記(平成30年3月19日 08:58)】

篠田ヲタ様から頂戴したコメントによれば、油壺延伸時の京急の「油壺駅」は、本文中の油壺バス停の位置ではなく、白髭神社(三浦市三崎町小網代1793。地図はこちら)の右隣にある小網代の森・油壺側入口周辺に設置する計画だったということです。したがって、「油壺駅」が開業したとしてもマリンパークからは1.3㎞~1.5㎞ほど離れてしまうことになったとのこと。記事中の写真は「油壺公園」の駐車スペースだったようです(^_^;)

しかしそうだとしても、やはり「油壺駅」までの延伸だと採算性には難があったことは否めないように思われます。仮に「油壺駅」まで延伸したとしても、三浦市中心部へのアクセスがバスに頼らざるを得ないのは変わりませんから。

 

この「油壺バス停」から数百メートルのところに、「京急油壺マリンパーク」があります。

 

こちらは立派なターミナル

 

こちらは京急の施設だけあって、うらぶれた油壺バス停とは雲泥の差です。ただしやはりド平日のためか閑散としていましたが、それでも油壺バス停のようなさびれた雰囲気はありません。

 

管理人は、↑の写真の正面に見える旅館で日帰り入浴としゃれ込みました。「三浦半島1dayフリーきっぷ」などを所持していると、所定の料金1000円が2割引きの800円になります。

写真はありませんが、ここの売りは露天風呂。三浦半島の静かな入り江を眺めながらの入浴は、至福のひと時でした。私事で恐縮ですが、実はこのところ管理人は心身とも疲弊していました。しかし、美しい風景を眺めながら入浴していると、エネルギーが静かにチャージされていくような感覚を味わったことです。

 

長風呂を堪能すれば、お昼ご飯にちょうどいい時間となりました。そこで、面倒くさくなって(失礼)同じ館内のレストランで、マグロ丼で昼食としました。

 

三崎のマグロ

 

このレストラン、「みさきまぐろきっぷ」の対象店舗でもあるようです。

 

至福の入浴を堪能し、さらに三崎のマグロを堪能した管理人は、三崎口駅に戻り、次なる目的地へ向かいます。

 

※ 当記事は03/17付の投稿とします。

4399.21年目を迎えた2100形

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至福の入浴と至福のマグロを堪能した後は、京急リラッ久里浜まで戻ります^^

 

そこにやってきたのは、「品川方面泉岳寺」行きの「A快特」2100形。

 

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ラスト編成

 

2100形は2101~からの連番で、2編成目は2111~ではなく2109~となります。したがって、浦賀方先頭車の車号が2173であれば、反対側の品川方の先頭車の車号は2180。2100形は8連10本ですから、10本目のこの編成が、2100形のラスト編成となります。

2100形については、以前にも当ブログで取り上げたことがありますが、当時とは異なる部分もいくつか。まずは、客用扉上部に設けられた、LCDディスプレイによる車内案内表示装置。

 

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扉上に1台

 

このような車内案内表示装置は2台(1台を広告用)設ける場合が多いのですが、2100形は1台となっています。勿論、2100形の登場時にはこんなものはありませんでした。

ちなみに、6年前の扉付近のディテールはこちら↓

 

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このときはLEDスクロール式だった(以前の記事からの転載)

 

確かにLEDスクロール式より、LCDディスプレイの方が情報量は多く、見やすさも段違いですからねえ…。もっとも、最近は東武500系のような、LEDスクロール式でも超バージョンアップ版もありますから、その限りでは両者の差が縮まったとも言えます。

 

こちらは浦賀方先頭2173の車内。

色鮮やかな座席が展開する車内は、6年前と変わりません。

 

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色は鮮やかだが派手という印象はない

 

当時と変わったところをもうひとつ挙げるとすれば、座席上の網棚などに席番表示が設けられたこと。これは「京急ウイング号」「モーニング・ウイング号」が、昨年5月から従来の座席定員制を座席指定制に改めたことと関係しています。

 

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「数字+アルファベット」のJR式

 

以前にも取り上げたことがありますが、席番表示は「数字+アルファベット」のJR式が主流になった感があります(数字が列を示さないつくばエクスプレスの例もありますがそれは例外として)。やはりこの方が分かりやすいのでしょうか。最近になって座席指定制の列車を走らせるようになった京王も京阪も、いずれもこのJR式を採用しています。かつては数字だけで席番を表示していた小田急、東武、近鉄は最近になってJR式に転向し、数字式を堅持するのは大手私鉄では南海だけになりました。

ところで、2100形には扉付近に補助椅子がありますが、ここは座席指定に割り振られるのか? そう思って見てみると…。

 

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席番らしきものがある

 

接写してみますと…。

 

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マジかよ

 

うはwww

ここにも席番がある。

 

ということは:Wing Ticketを買っても、この補助椅子が割り当てられる可能性がある…?

確か東武の「TJライナー」は、車端部のロングシートは定員外と計算して着席整理券を売っていますが、「京急ウイング号」などはそうしていないのでしょうか。あるいは混雑時の予備・非常用として売るんでしょうか。普通に買ってここに割り振られたらちょっと嫌だな(^_^;)

 

そして2100形といえば、メカニックに独シーメンス社の製品を採用し、起動時の音がメロディーを奏でることから「歌う電車」として親しまれたものですが、現在ではメカニックを国産品のそれに換装し、歌わなくなってしまいました。

 

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「Powered by SIEMENS」表示はなくなった

 

かつては2100形や新1000形(初期車)には、「Powered by SIEMENS」の表記があったものですが、換装が済んでからはなくなってしまいました。それでも新1000形の一部には、現在もなお「歌う」編成、シーメンス社のメカニックを搭載している編成が残存しています。管理人は、京急久里浜からの帰り、幸運にも「歌う」編成に遭遇することができ、京急川崎まで独特なサウンドを堪能したことです。

 

今年で就役から満20年、数えで21年目を迎える2100形ですが、依然として京急のフラッグシップとしての地位は揺らぐことがありません。もし2100形の後継車が作られるとすれば、それはどんな車両なのか、2扉クロスシートという仕様になるのかは気になります。同じような車両を走らせていた阪急も西鉄も、既に本線特急から2扉クロスシート車は撤退しましたので。

 

◇関連記事

№2100.【記事数2100記念】「歌わなくなった電車」の今【京急2100形】

№4069.SEAT NUMBERS~with ALPHABET or not?

 

※ 当記事は03/18付の投稿とします。

4400.「連接車」の得失~普通鉄道では「ロストテクノロジー」になる?

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3月12日の「京急充」の記事を一旦中断して、ブログナンバー4400にちなみ、そして小田急GSE70000形就役を記念して、ネタ記事いかせていただきます。

今回は、元三重交通モ4400形として著名な、三岐鉄道北勢線200系電車にちなみ、「連接車」を取り上げます(『連接車』の定義については後述)。

 

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2枚目の写真、確かに連結面に台車の構造物が見えますね。これこそがまさに「連接台車」。

実は「連接車」と「連接台車」とは全くの別物で、鉄道趣味界では「連接車」というと、↑の2枚目の写真のように「2つの車体の間に台車を設け、車体をつなぐ構造の車両」をいうと解されているようですが、「連接車」を厳密に定義すると、「運用中に分離可能な連結器を使わずに、半永久的、直接的に車体同士を関節構造で接続した列車のこと全般」となります。この定義によれば、フローティング車体を持つ路面電車「リトルダンサー」のような車両や、片方の台車に一方の車体を乗せ掛けているだけの国鉄キハ391形なども、この「連接車」の定義に該当することになります。

当記事では、「連接車」を取り上げますが、そのようなものではなく、「2つの車体の間に台車を設け、車体をつなぐ構造の車両」、すなわち小田急VSEなどや江ノ電の車両のようなもののみをいうと定義し、それを前提に進めていきます。

 

連接車が初めて日本に現れたのは、昭和9(1934)年の京阪80形「びわこ号」とされていますが、これは鉄道線規格の京阪本線から路面電車規格の京津線へと直通するため、京津線の急カーブと急勾配に対応する必要があったためで、そのため80形は路面電車規格の車体となっています。その6年後、鉄道線規格の連接車としては初めて、西鉄に500形という連接車が登場します。

連接車は、軸重を軽減できること、急カーブに対応できること、高速走行時の安定性が高くなること、ボギー車よりも曲線でのはみ出しが少なくなるため車幅を拡げることができることなどの利点から、路面電車あるいはその規格の路線の車両に多く採用されていますが、路面電車での連接車採用の嚆矢は、昭和15(1940)年の名古屋市電2600形です。戦前・戦中での路面電車における連接車の採用例は、名古屋市電のみとされていますが、戦後は輸送力増強の要請からか、連接車の採用が増加する傾向にありました。しかしその後、モータリゼーションの進展により路面電車自体が路線廃止となるものが多かったため、その後の採用例は減少しています。

 

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かつて需要増大期に導入された路面電車の連接車
(写真は広電3000形・元西鉄福岡市内線の連接車で、西鉄時代の2車体連接を3車体連接に改造している)

 

鉄道線においては、小田急が新型特急車両を製造する際、「新宿-小田原60分」を目指し高速化を模索していたところ、軸重軽減や高速走行時の安定性という連接車のメリットに目を付け、実際に西鉄500形を視察するなどして連接車と通常ボギー車の得失を徹底的に比較検討した結果、連接車とすることに決定、昭和32(1957)年、SE車3000形として結実しています。その後、小田急はNSE3100形、LSE7000形、HiSE10000形と連接車を世に出してきましたが、SE車登場の34年後、平成3(1991)年に登場した20000形RSEでは通常のボギー車に改めています。これは、JR東海との相互直通運転に関する協定に基づいて製造されたためやむを得なかったのですが、さらにその6年後の平成7(1995)年に登場したEXE30000形では、収容力と分割併合による運用の柔軟性を重視した結果、通常のボギー車とされています。EXEの10年後に登場したVSE50000形は連接車となり、しかも空気ばねによる車体傾斜機構も備えるハイテク仕様となりました。これで小田急は連接車を捨てていなかったと思ったのもつかの間、平成20(2008)年登場のMSE60000形は再びボギー車に戻されました。MSEは地下鉄乗り入れの必要があるためボギー車となるのはやむを得ないといえ、次の特急車がどうなるかは大いに注目されたものですが、今年就役したGSE70000形は通常のボギー車とされ、連接車ではなくなってしまいました。

ちなみに、海外ではフランス国鉄TGVが連接構造を採用していますが、これは高速走行時の安定性という連接構造のメリットを取った結果といえます。

 

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小田急は初代SEから4代目HiSEまで連接車だった(写真は2代目NSEの保存車両)

 

上でもちらっと触れていますが、連接車にはデメリットも勿論あります。その最大のものは、運用の柔軟性がないこと。小田急がEXEをボギー車としたのは、まさにそれが理由ですが、これまで国鉄~JRで連接車が殆ど世に出なかった理由もその点にあります。かつて国鉄では、TGVのような準動力集中方式の気動車列車を計画していたことがあり、これは中間車を連接構造にする構想もあったようですが、この構想が放棄された最大の理由は、編成の自由度が無く運用上の柔軟性がないことでしょう。国鉄時代の常識では、気動車列車は特急列車と言えども1両単位での増解結が容易であり、それ故に柔軟な対応が可能だったということですから、そのようなメリットを手放す連接車の採用は、できない相談だったことは想像に難くありません。

また、連接車のもうひとつのデメリットは、メンテナンスに手間がかかるということです。通常のボギー車であれば1両単位で検査することが容易ですが、連接車の場合車両の切り離しが大変であり、それだけでもかなりのコストがかかってしまいます。小田急がGSEを通常のボギー車にしたのも、連接車のメンテナンスの大変さがあったのではないかと思われます。

 

そうすると、連接車を採用する鉄道事業者は、デメリットを凌駕するメリットがある場合、具体的には急カーブが多く存在する路線、あるいは路面電車ないしそれに準ずる規格の路線で、車幅を拡げるなどして収容力を増大させる必要がある場合に限られてきます。前者の例が江ノ電など、後者の例が東急世田谷線などです。

 

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江ノ電は急カーブが多いため現役車両の全てが連接車となっている

 

今後は、普通鉄道での連接車は世に出にくくなるのではないかと思われます。今のところ、最後に登場した普通鉄道における連接車は、試験車以外では平成18(2006)年に登場したJR東日本のE331系ですが、就役後僅か8年、平成26(2014)年に退役してしまいました(平成23(2011)年以降は営業運転には就いていなかったので、実際に営業運転を行っていたのはさらに短い期間)。営業運転を行う現役の普通鉄道での連接車としては、もしかしたら小田急VSEが最後になるかもしれません。

高速化を模索する過程では大いに注目された連接車ですが、今後はどうなるのか、普通鉄道においては連接車が「ロストテクノロジー」になってしまうのか、そこも注目したいところです。

 

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※ 当記事で使用している写真は、いずれも以前の記事からの転載です。また、03/18付の投稿とします。

4401.あの日から15年~半蔵門線押上開業・東武との相互直通運転開始

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今から遡ること15年。平成15年3月19日。

この日は、半蔵門線水天宮前-押上間が開業し、同時に東武伊勢崎・日光線との相互直通運転を開始した日です。同時に、東武からの直通列車は半蔵門線の西側の終点・渋谷を突き抜けて東急田園都市線へと達し、中央林間-渋谷-押上-南栗橋間の、長大な相互直通運転ルートが誕生しました。

今回は、この長大な相互直通運転ルート「半直」の誕生から満15年を寿ぎ、記念記事をアップしたいと思います。よろしくお付き合いのほどを。

 

「半直」開始に向けて揃えられた車両は以下のとおり。

 

・東武 15編成 30000系(6+4)15編成

・営団 26編成 8000系19編成、08系6編成

・東急 45編成 8500系36編成、2000系3編成、5000系6編成(ただし8500系13編成と2000系全編成、合計16編成は東武乗入不可)

 

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東武は30000系を用意した(写真は直通運用離脱後)

 

直通開始前と比較すると、東武は純粋な増備、営団と東急は6編成ずつ純増となっています。これは勿論、乗り入れ距離が増えることによる運用数の増加に対応したものです。

なお、この翌年、営団地下鉄(帝都高速度交通営団)は民営化され「東京メトロ」(東京地下鉄株式会社)に改組したため、このとき投入された08系10連6本が、営団として投入された最後の新形式車両となっています。

 

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押上開業と相互直通運転開始をにらんで投入された08系

 

華々しく始まった「半直」ですが、当初期待された東武側からの乗客の転移、具体的には日比谷線・千代田線ルートからの転移は、思うように進みませんでした。その理由は、現在と異なりラッシュ時を除き「区間準急」(現在の準急と同じ停車駅)しかなく速達性に難があったのと、田園都市線・半蔵門線と東武線では列車ダイヤのサイクルが異なるのにそこに無理やり直通列車をねじ込んだため、途中駅での時間調整の停車が生じ、速達性が損なわれていたからです。

このようなダイヤの歪みは車両運用にも影響し、東武の車両は走行距離の関係から田園都市線-半蔵門線内で折り返す運用が多くなり、東急の車両は東武乗入不可の編成(通称サークルK)の運用効率が著しく落ちてしまっています。最近では東急のサークルKも7編成までに減少していますので(8500系2編成、8590系2編成、2000系3編成)、当時よりは運用効率は向上しているはずですが。

 

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サークルK編成は着実に減少している

 

しかし、3年後の平成18年、東武は半蔵門線直通列車をダイヤの中心に据える白紙ダイヤ改正を行い、直通列車の運転間隔を日中20分から10分に倍増、同時に南栗橋だけではなく伊勢崎線久喜にも達するようになりました。これにより、日中の南栗橋行きと久喜行きの比率が1:1となっています。同時に、途中駅で行われていた「時間調整」という名の長時間停車は殆ど無くなり、実質的なスピードアップも図られています。

これと前後して、東武は10連貫通編成の50050系を投入、中間に組み込まれる運転台というデッドスペースを廃し、収容力を増加させ、田園都市線の殺人的ラッシュに対応しています。50050系投入により、30000系は2編成を残して東上線に転属し、同系が半直ルートで活躍するのはわずか2編成のみになっています。なぜ30000系が2編成だけ残っているかというと、毎年GWにあしかがフラワーパークへの観光客輸送のため運転されていた「フラワーエクスプレス」(太田発着)に充当する必要があり、館林以北には10連が入線できないから…と説明されていますが、実際にはこの列車は平成22(2010)年を最後に運転されていませんので、今となってはこの2編成は「取り残された」感もあります。

東急側も車両の入れ替えを順次行い、相互直通運転開始当初は6編成だった5000系を18編成まで増やし、サークルK編成を中心に8500系編成を退役させました。東急は当初、5000系を大量投入し8500系は一部のハイナンバー編成を残して退役させる計画を立てていましたが、JALの経営破綻とリーマンショックのダブルパンチにより、この計画は頓挫し、5000系の増備もストップしてしまいました。これが8500系が現在でも活躍する理由となっていますが、流石に40年以上前の基本設計の車両をいつまでも使うわけにはいかないのか、今年から2020系を順次投入するということです。今回(昨年度)投入される同系は3本で、これは純粋な増発用で8500系を置き換えるものではないということですが、今年度(今年4月以降)投入される車両からは、いよいよ8500系の置き換えをターゲットにした増備が見込まれます。

 

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いよいよ8500系も「その時」が近づく

 

その後、平成25(2013)年3月に再度「半直」のダイヤに手が入れられ、日比谷線からの直通列車が南栗橋に達するようになったのと引き換えに、南栗橋行きと久喜行きの列車の比率を従来の1:1(日中)から1:2(同)に改めています。

東武側から見れば、日比谷線ルートや千代田線ルートよりは明らかに遠回りではあるものの、徐々にこれらルートからの通勤客の転移が進み、現在はこれらルートの混雑率は相当に緩和されたようです。そして東急沿線からも東武沿線からも行きにくかった錦糸町へのアクセスが容易になったことも、「半直」の功績でしょう。

 

今のところ、ダイヤとしては現時点のものがひとつの完成形といえますが、今後は車両の入れ替え、特に東急の8500系の置き換えがどのように進むのかについても、注目していきたいところです。そして巷間噂されている、半蔵門線直通列車の館林延伸が実現するかについても。これについては加須・羽生・館林の沿線自治体が要望を出しているようですが、現在でも長い東武側の走行ルートが、館林延伸によってさらに長くなると、3社の走行距離の調整がさらに難しくなるので、実現の可能性は不透明といわざるを得ません。仮に実現したとしても、朝夕に数本、それも東武車の限定運用になるのではないかと思われます。

次の15年で、「半直」がどのように進化していくのか、管理人も見続けていきたいと思います。

 

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№133.A Road is born-その12 半直ルート発展期~半直ルート完成と発展

 

※ 当記事で使用している写真は、全て以前の記事からの転載です。

4402.あの日から15年~半蔵門線押上開業と同じ日に逝ったプロレス界の奇才を偲ぶ

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【管理人注】

当記事は「鉄分」が殆どありません。管理人のもうひとつの趣味であるプロレス観戦について語る記事ですので、プロレス・格闘技について興味の無い方は読み飛ばしてください。

 

15年前の3月19日。

この日半蔵門線水天宮前-押上間が開業、同時に長大な「半直」ルートが誕生したことは、前回の記事で述べたとおりですが、実はこの日、平成15(2003)年3月19日は、ある人物の命日でもあるのです。

 

その人物とは、奇才のプロレスラー・冬木弘道。

 

冬木弘道とはこんな人です。

 

彼は日本のプロレス界に、初めて「エンターテインメント」の概念を持ち込み、それに徹した興行を行おうとしました。

今はそうでもなくなっていますが、力道山時代から馬場・猪木両巨頭の時代、さらに平成初期に至ってもなお、プロレスに関する「ヤオ・ガチ論争」、つまり「プロレスは八百長なのか否か?」という論争が大真面目に交わされていました。そのような中、プロレスをショーであると割り切り、そちらに思い切り舵を切った「エンタメ路線」を日本に持ち込んだ初めての人物です。

もっとも「プロレス=興行、見世物」という図式を持っている人たちからしたら、力道山時代から「興行=エンターテインメント」だろうという批判もあるでしょうが、ここで言っているのは「プロレスが『ショー』であることを正面から認め、『エンターテインメント』に徹することを表明した初めてのレスラー」であるということです。

 

冬木の考えた「エンタメ路線」は、彼が当時主戦場にしていたFMW(大仁田厚が作った団体です)において一定程度具体化し、興行としてもそれなりの成功を収めました。勿論全ての試みが成功というわけではなく、時には賛否両論、あるいはそれを通り越して大顰蹙、という興行もあるにはありましたが…。

しかし、そのための主戦場だったFMWは平成14(2002)年初頭に経営破綻、会社代表者が自殺するという最悪の結末を迎えてしまいました。その年、冬木は自らが大腸癌に罹患していることを公表、三沢光晴との引退試合を経て引退(このときは冬木弘道引退興行として開催され、ノア及び三沢が全面的に協力、興行の収益は全額冬木に渡された)、その後は自らが旗揚げするWEWのプロデューサーに就任しました。

 

そのWEWの旗揚げ戦(平成15年5月5日川崎球場)で一夜のみ復帰、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定で、亡くなる8日前の同年3月11日、病院から外出許可を貰い、リング上の橋本に直談判をして対戦を求め、橋本は対戦を受諾しています。しかし、この時の冬木は終始汗が止まらず、顔色も悪く、誰が見ても体調が最悪である、つまり「末期」であることが明らかになっていました。

冬木が亡くなったのは、その8日後のことです。

ちなみに、そのWEWの旗揚げ戦では、橋本が電流爆破マッチを戦いましたが(対戦相手は冬木ではなく金村キンタロー)、橋本は試合開始前に冬木の遺骨を抱え自ら爆弾の中に身を投じました。橋本のこの姿は、当時のプロレス雑誌やスポーツ新聞でも大々的に取り上げられ、プロレスファンの涙を誘いました。

 

冬木が亡くなって15年。彼と引退試合を戦った三沢光晴も、一夜限りの復帰戦で電流爆破マッチで対戦するはずだった橋本真也も、もう「この世」というリングを降りてしまいました。15年という時の流れの残酷さに思いを馳せざるを得ません。

彼が提唱した「エンタメプロレス」は、日本のプロレスファンにも受け入れられつつあります。しかし、当時とは比べ物にならないくらい、プロレスの市場が縮小してしまったため、たとえプロレスファンに届いたとしても、世間には届きにくくなっているのが残念です。

改めて、奇才の人を偲びたいところです。

 

※ 文中敬称略

4403.路地裏の超特急~京急「快特」物語 その9 21世紀を見据えて2100形登場

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その8(№4394.)から続く

 

京急が創業100周年を迎えた平成10(1998)年、当時のフラッグシップ・2000形に代わる車両を投入します。それが現在まで京急のフラッグシップとして君臨する2100形。京急の創業80周年を記念して就役した車両が800形と名付けられたのに、こちらは100形・1000形ではなく2100形となっています。これは1000形が当時現役だったのもありますが、21世紀を見据えた車両として開発したという意気込みを表すものとして「2100」という車号を採用したものだとか。

 

2100形については既に様々なところで語られ、当ブログでも何度か取り上げていますから、ここでそのスペックの詳細を記すのは止めますが、2100形の最大の特徴は内外装ともに外国製品を積極的に採用したこと。例えば、走り装置は独シーメンス社製のメカニックを採用していますし、空気圧縮機は独クノールブレムゼ社製、腰掛は車端部を除き骨組みはノルウェー・エクネス社製、座席の表皮はスウェーデン・ボーゲサンズ社製となっています。この座席は、転換式でありながら背ずりの厚みがたっぷりしておりクッション性も十分で、しかも表皮の感触も柔らかいため、大変に座り心地の良い座席となっています。

また2100形は2000形と同じ2扉クロスシート・車端部ボックス席という構成ですが、2000形との違いは①窓を全て固定窓にしたこと、②扉間の座席を全て転換クロスシートにしたこと、③車端部ボックス席の腰掛部分を跳ね上げ式にし、荷物置き場にも使えるようにしたこと、④扉上に車内案内表示装置(LEDスクロール式)を設けたことです。①は空調装置の整備で実現したもので、高い静粛性の実現に寄与しています。②は2000形で採用しなかった転換クロスシートですが、これの採用により、扉間の座席の全乗客が進行方向を向いて座ることができるようになりました。しかし、阪急6300系や西鉄8000形などとは異なり、2100形の転換クロスシートは、乗客が手動では転換できません(終端駅で車掌が遠隔操作により一斉転換する)。これは向かい合わせでの使用をしないことを前提にシートピッチを詰め、座席定員を確保したのが理由ですが、それでも乗客が無理な転換を試みて座席が破損する事例が頻発したため、その後背ずり部分に「イスの向きは変えられません」という注意書きが付加されるようになりました。

車端部をボックス席としたのは2000形と共通ですが(③)、座席を跳ね上げ式にしたのは異なります。これは、2100形を羽田空港-成田空港間の空港間連絡列車に使用する構想があり、海外旅行客の大荷物に対応する必要からこのような仕様にしたものです。この構想のため、2100形は「1号線規格」に則って車体長や台車中心間距離が決められているばかりか、2000形にはなかった非常用正面貫通扉が設けられています。この非常用正面貫通扉のおかげで、品川発着だった「A快特」を泉岳寺発着にすることが可能となり、都営浅草線との接続が改善されています(A快特の泉岳寺発着は平成14(2002)年から実施)。ただし、2扉クロスシートというスペックのためか、東京都交通局が2100形の営業運転での乗り入れには難色を示したため、同形登場20年後の現在に至るまで、同形が都営浅草線・京成線に営業運転で乗り入れたことはありません。「成田スカイアクセス線」が開業した現在なら、羽田空港-成田空港間の「アクセス特急」には適任ではないかと思えますが、やはり2扉クロスシートでは、途中駅での乗降性に難があるので難しいでしょうか。ただしイベントその他の営業運転以外なら、都営浅草線に乗り入れたことは何度かあり、馬込車両検修場の公開イベントでは、2100形が公開されたことがあります。

なお、2000形との相違点をもうひとつ挙げるとすれば、運転台真後ろの席が600形(Ⅲ)と同じクロスシートになったこと。これにより、2100形は京急の2扉クロスシート車では初めて、正真正銘のオールクロスシート車となりました。

 

2100形は平成9(1997)年度内となる平成10(1998)年3月までに2編成が落成、同年3月28日から快特運用に投入されました。平成10年には9~11月にかけてさらに3編成、平成11年には4~5月に3編成と、ほぼ半年のスパンで投入が継続されました。

これに伴って、2000形は3扉化・ロングシート化(ただし車端部のボックス席は存置)を柱とした格下げ改造工事が始まり、第1編成の2011編成が平成10年のうちに東急車輛(当時)から出場しました。扉間5枚の窓の真ん中に扉を増設したため、この部分は戸袋となって扉間の窓の大きさが不揃いとなり、やや不格好な姿となりました。このあたりは、特急車時代の窓を戸袋窓として残した阪急2800系と対照的です。しかし、2扉クロスシート時代の側窓の横引きカーテンは残り、他の一般車がロールカーテンしかない中、一般車らしからぬ豪華仕様となりました。また、車端部のボックス席は存置されたため、これも好評を博しました。このような、車端部にボックス席を存置し、扉間をロングシートにした座席配置は、平成14(2002)年に登場した1000形(Ⅱ)に受け継がれています。

それよりも「格下げ」の事実を見る者に強烈に突き付けたのは、外板塗色の変更。2扉クロスシート時代の赤+窓周り白のツートンから、一般車と同じ赤地に窓下白帯に変更されてしまいました。遡ること20年前、自らがデビューしたときに同じカラーリングを800形から奪ったのが2000形ですが、今度は2100形がデビューしたことで、自らのカラーリングを剥奪されることになろうとは。

 

2100形を語るについて、幻に終わった4連増結用に関する話題と、4次車の話題を取り上げておきましょう。

2000形には8連の基本編成の他、4連の付属編成が存在しました。この4連の付属編成のおかげで、12連の快特を全車2扉クロスシート車で運行することが可能になり、また4連を2本、あるいは3本つないで運用するなど、運用の自由度の確保にも大いに寄与したものですが、なぜか2100形には作られませんでした。構想が全くなかったわけではなく、構想がありながら作られなかったというのが正しいのですが、なぜ作られなかったのかについては、当時600形がオールクロスシートで4連の付属編成が6本存在していましたので、2000形の4連に相当する増結運用はこちらで賄えるという算段があったとか、2100形が中央貫通扉ではないため、4連を2本つなぐと品川以北や都営浅草線への乗り入れが不可能になることが危惧された(2100形の8連貫通編成なら泉岳寺乗り入れができるが、4+4だと中間の非常用貫通扉がずれるので不可?)など、様々な理由が語られますが、いずれも推測の域を出るものではありません。

そして2100形の4次車は、3次車までが立て続けに投入されたのに対し、平成12(2000)年10~11月に2本投入と、3次車から実に1年半ブランクが開いています。この理由について、より洗練された外観とするよう、先頭形状の変更が検討され、クレイモデルまで作られたそうですが(クレイモデルは久里浜工場に現存する)、結局従来と同じ先頭形状で製造されたということです。そのクレイモデルの写真を見ると、実車よりも丸みの強い流線形となっていますが、もしこれが実現したら4次車は座席定員が減少するか、都営浅草線乗り入れの対象外となってしまう(1号線規格を外れてしまう)かのどちらかになっていたでしょう。4次車を従来と同じ形状にした京急の中の人の判断は正しかったと思います。

 

2100形は平成12年までに8連10本の80両が投入され、「A快特」及び「京急ウイング号」の運用をほぼ掌握しました。そしてその後はリニューアルを受けたものの(リニューアルのメニューに関しては、追って取り上げます)、現在に至るまで、京急のフラッグシップ、イメージリーダーとして君臨し続けています。

次回は、羽田空港ターミナル直結が実現したことで登場した、「もうひとつの快特」を取り上げます。

 

-その10に続く-

4404.【初めて2020系を】長津田見聞録2018.03【間近に見た】

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3月の長津田見聞録でございます。

既に3月も下旬に突入し「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる春のお彼岸となりましたが、その中日であるはずの21日は何と降雪に見舞われるという、晴れの特異日らしからぬ天候。

今日22日は休みだったことと、午後から天候が回復したので、このままでは3月中の視察ができなくなると思い、出撃を決意。

 

まずいつものとおり、つくし野駅で下車しJR横浜線の踏切を渡り、検車区を渡る陸橋へ。

その途中の「谷底」を除くと…。

 

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今日は在線なし

 

これもいつもどおり、陸橋の上から検車区全体を俯瞰してみます。

 

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左の屋根が綺麗な5000系編成の隣は8642F

 

ここにいました、8642F。

ちなみになぜ8642Fと分かったかというと、クーラーキセの形と車号。10連でこの形のクーラーキセ(9000系と同じ)は、8637Fと8642Fの2本しかありません。なお、8642Fは東武乗入不可編成なので、もしこの屋根だけ撮った写真が東武線内で撮ったことが分かれば、それは8637Fと特定できます。ちなみに、ここに留置されていた8642Fは、あとで本線に出てきて夕方の運用に充当されていました。

 

そして同じ立ち位置から右側を見てみると…。

 

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ん?

 

最も外側の線に、2020系が在線している!

 

何故わかるかというと、屋根が白いから。

屋根が真っ白な理由は、絶縁塗料を塗っているから(この白色自体が絶縁材になっているということらしい)と聞きました。大井町線用の6020系も同じ真っ白な屋根。しかし、地上線しか走らない6020系に比べ、二子玉川-渋谷-押上-曳舟間で地下を走る2020系は、この屋根はかなり汚れるのでは…。

 

まずは5000系と並んだご面相を。

 

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5000系よりさらに丸みを帯びた形状であることが分かる

 

5000系が出てきたときも管理人は驚きましたが、もう2020系では驚きませんw

ちなみにこの編成は、2020系の第1編成。

 

何故かドアが開け放たれていました。

 

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独特の座席袖仕切りの形状が分かる

 

こちらは、側扉周りのディテールが分かります。

特徴的なのは車号の記し方。戸袋窓部分に記載するのは従来どおりですが、2020系は何と、号車表示・車椅子スペースの表示などと一緒に収められています。最初に2020系を見たときはこれが分からず、管理人は「車号がねえええええ!」と軽くパニックになりました(^_^;)

 

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特徴的な車号の記載

 

しかしこの第1編成、女性専用車のシール以外は、側扉に貼る案内用及び注意喚起用のシールが貼られていないようですが、これで営業入りするのでしょうか? かつて8090系が東横線で営業入りしたとき、当初は側扉には一切シールを貼らないまま運用されていたことがありますが。

 

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側扉の窓にシールが貼られていないのが分かる

 

最後もいつもどおり、検車区の突端から撮影です。今回は桜が開花したという情報を聞きつけ(靖国神社の標本木が開花した)、桜の咲き具合はどのくらいかと思ったのですが、殆ど咲いていませんでした。

 

2本のサークルKに挟まれる8500系ハイナンバー編成

 

ハイナンバー編成(8631F以降)とはいっても、8632Fも就役から今年で35年が経過しますからねえ…。両側のサークルK編成(左が8695F、右が8606F)は来年度以降どうなるのでしょうか。

 

こちらは、同じ立ち位置から右側を向いて撮影した写真。

 

濃すぎるスリーショット

 

2000系と「派手車」と2020系ですか…。

ちなみに、こちらの2020系は第3編成ですが、第1編成とは異なり、扉部分のシールの貼り付けも済んでいました。いつ営業運転に投入されてもおかしくありません。

2000系といえば、ここに来る前の長津田駅で、引上線に2003Fが停車していたのを見たのですが、撮影できませんでした(´・ω・`)

 

↑の写真のさらに右側に、6020系が留置されているのですが、それが入るように撮影したのがこちら。

 

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9000系の陰に隠れている

 

今回はこんな写真しか撮れなかった(´・ω・`)

 

東急では全線ダイヤ改正を3月30日に予定していますが、そのときが2020系と6020系のデビューのときとなるようです。あと10日を切りましたが、これが東武の複々線区間を走る姿を見るのが楽しみです(^_^)

 

おまけ。

検車区の側道沿いの桜。

 

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こちらは満開間近だった

 

検車区突端の桜はソメイヨシノだから、こちらはまた別種の桜なんでしょうか。

いずれにしても、「さくらてつ2018」にはまだ間がありそうです。

4405.【留置中の1000系中間車】恩田月例報告2018.03【先頭車化改造に着手?】

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長津田の視察を終えた後は、長津田駅まで歩き、こどもの国線の電車で恩田へ。

恩田駅に降り立った後、いつものように工場を望んで写真を撮影しようと思ったら…あれれ?

 

手前に柵ができている

 

こんな柵、前回訪問時にはなかったような…。見たところ、真ん中だけが固定されていて、両側はキャスターが付いていますから、4連(Y000形の重連)運行時にはここを動かすのでしょう。

しかし何故こんな柵を…? やはり管理人のような愛好家が見に来るからなんでしょうか。

 

これもいつもどおり、工場全体が見渡せる高台へ上がります。

そこにあったのは、絶賛改造中の1351(手前)と1301が。

 

180322_153323_ed.jpg

いよいよ改造も本格化か

 

写真では分かりにくいかもしれませんが、手前の1351の車端部右側は、側窓・妻窓ともガラスが外され、急場しのぎのビニールが貼られていました。これはやはり、先頭車化改造に着手したということなんでしょうか。

他の車両は…と思って、引いて撮影してみましたが、分かりませんでした(^_^;)

 

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右側には1500番代の第8編成が見える

 

こちらは1500番代と、その背後の5050系(車号不詳)。

 

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こちらは定期入場でしょう

 

現在改造中の1000系は福島交通向けだそうですが、1000系がなくなれば地方私鉄に好適な18m級の車両の出物がなくなるということで、福島交通は福島県から補助金を拠出してもらって、残る1000系を全て押さえてしまったのだとか。

…素朴な疑問ですが、メトロ03系とかじゃ駄目だったんですかね?

 

今回の恩田訪問は以上…ですが、それだけで終わってしまっては面白くないので、こちらも工場の敷地内、恩田川沿いの桜はどうなったかについて取り上げます。

↓の写真の右側が桜並木ですが、殆ど咲いていません(^_^;)

 

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まだまだ

 

…と思っていたら、ぽつりぽつりと咲いていました。

 

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わかるかな?

 

「一分咲き」どころか「五厘咲き」という感じですが。

したがって、こちらの桜の木もこのとおり↓

 

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こちらも殆ど咲いていない

 

まだまだ満開には間があるということでしょう。うまくすれば、来月の初頭には「さくらてつ」が楽しめるかな?

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