6月10日の野岩・会津鉄道日帰りツアーの落穂拾い。
4.21ダイヤ改正以降、定期運用では南栗橋以北に閉じ込められてしまった6050系。今回は、彼らを取り上げます。
「閉じ込められてしまった」というのは、東京側からしか物を見ていない、いささか感傷的に過ぎた見方かもしれない。そう思えるくらい、下今市駅では6050系使用列車と沢山遭遇することができました。
並び(苦しいか?)
しかしやはり、浅草までの長距離運用がなくなったからか、2連を3本つないだ6連の運用はなくなり、どれも2本つないだ4連での運用になっています。
そして中には、最小単位の2連での運用も。
小回りが利くということでもある
2連の運用そのものは、4.21ダイヤ改正以前からありましたが、やはり「運用範囲が狭まった」という目で見てしまうと、いかにも勢力を縮小した、という風に見えてしまいます。
6050系の特徴は、何と言ってもゆったりしたボックスシート。扉間に7つのボックス席が整然と展開し、扉の周囲だけ2人掛けのロングシートとなっています。
まさに長距離仕様
現在は全滅してしまいましたが、かつて国鉄でどこでも走っていた急行型電車、165系や455系を彷彿とさせるものがあります。運用も長距離列車と類似していますし。勿論あちらはデッキ付きで、こちらはありませんから、内装で言うなら急行型電車よりもキハ45系の方が近いですが。
しかし、そのような国鉄急行型電車との類似性のためか、鉄道趣味界では6050系を「私鉄の165系」と評する声もあるようです。
ただしボックスシートは、本家よりもゆったりとしており、何より座面と背もたれが独立しているところが異なります。
座面と背もたれが独立している
この席、クッションも柔らかく、管理人が以前浅草から下今市まで乗り通したときは、全く疲れを感じませんでした。やはり浅草から会津田島まで乗り通しておくべきだったと、後悔しきりです(´・ω・`) いつも下今市や鬼怒川温泉まではスペーシアを利用してしまったものですから。
座席の上には、かつて座席指定列車に使用されていた名残で、座席番号が残っています。
数字のみの旧東武式
これ、6050系だから番号だけですが、特急用の100系・200系などだと、号車番号も入っていて、例えば3号車17番なら「317番」と番号が振られていたんですよ。つまり百の位が号車番号、十と一の位が当該車両の座席番号だったわけですが、このやり方が分割併合が当たり前の500系では維持できないので、数字+アルファベットのJR式に移行させたのでしょうね。
しかし、6050系にJR式の座席番号が振られることはなさそうです…。
片側2ヶ所の客用扉。通勤型車両と同じ両開きで、乗降性に配慮されています。
歴戦の疲れが見える
扉の下方に、「歴戦の疲れ」が浮き出ているように見えます。そりゃ車体を新たに製造してからでも、30年は経過しますから、こうなっても無理はないですが。しかし、浅草へ顔を出す機会が失われた今、この「歴戦の疲れ」、どこか悲しげに見えてしまいます。
ところで、4.21ダイヤ改正で6050系に余剰が出たことから、鉄道趣味界では他事業者への譲渡を期待する声がありますが、率直に言って、こんな車両を欲しがる事業者はいるのでしょうか? 勿論、6050系をコケにする趣旨で「こんな車両」などと申しているのではなく、30年間にわたって酷使され、しかも一部車両の走行機器は50年落ち。メカニックは単純な抵抗制御ですから、そりゃ当座は使いやすいでしょうが、早晩メンテナンスに行き詰まることは目に見えています。そういう意味での「こんな車両」です。
願望や妄想も結構ですが、それならそれで、願望や妄想であることを前提として発信してほしいものです。ただ、発信した本人は願望・妄想である旨を明言していても、途中でそれがいつの間にか取れてしまって、確定情報みたいに一人歩きを始めることすらあり得ますから、発信者がいくら気をつけていても…という面があるのは事実ですが。
閑話休題。
今後は、6050系は第22編成までの機器流用編成が淘汰されることになるものと思われます。と同時に、南栗橋-新栃木-下今市間は10000系列などの通勤車に置き換えられ、下今市以北(出入庫の都合で新栃木発着が少数)に閉じ込められるのではないかと思われます。一部ではワンマン化改造された20000系列を投入するという噂もありますが、流石にそれはちょっとどうかと思います。
「私鉄の165系」「栃木路のアスリート」には、まだまだ頑張ってほしいものですが。