-その6(№4855.)から続く-
前回200系列の登場を取り上げましたが、200系登場と引き換えに「りょうもう」運用を追われた「赤い急行」1800系がどうなったのか。予告編とは変更しますが(またかという突っ込みはご容赦を)、今回と次回でそのことを取り上げようと思います。
200系の第一陣が登場したのが平成3(1991)年2月ですが、これと引き換えに、1800系が「りょうもう」運用を離脱していきます。
1800系のたどった運命は、以下の4つに分かれます。
① 最初に離脱した4編成(1813F・1816~1818F)→日光線急行用に転用改造
② 後に運用を外れた3編成(1811F・1812F・1814F・1815F)→1814F以外は編成短縮の上通勤車に改造
③ 1819F→団体・臨時用に転用
④ 1814F→再起することなく廃車解体
順に見ていきましょう。
1 日光線急行用(300・350系への改造)
200系就役と引き換えに早期に離脱した4編成は、日光線急行用への転用改造を施され、6連のまま改造されたのが300系、4連化されたのが350系となりました。
転用改造の目的は、当時日光線特急を補完していた「快速急行」のサービスレベルの低さが問題となったからです。快速急行には昭和60(1985)年まで非冷房の6000系が使用されていて、それがその後6050系に代わり、冷房が装備されたのはいいのですが、快速と変わらない4人掛けボックス席であり、快速と比べた場合のアドバンテージは「座席が確保されること」だけでした。しかも、多客期の臨時列車には、当時健在だった5700系が動員されることもあり、こちらは転換クロスシートだったものの、やはり冷房が無いことが問題視されていました。
そこで東武は、「りょうもう」運用離脱で浮いた1800系を有効活用し、快速急行を急行に格上げして体質改善を図るべく、日光線急行用に改造することにしました。6連を維持したのが300系、4連化されたのが350系となっています。
改造メニューは以下のとおり。
① 前照灯と尾灯を1819Fと同等の意匠に変更(角型化)。
② 座席を1819Fと同等のバケット型に交換。
③ 正面愛称幕の自動化・側面表示幕の設置。
④ 車内の化粧板を白系のものに交換。
⑤ 車体色を白ベースに赤・オレンジの帯に変更(6050系と同配色)。
⑥ 4連化に際しては、6連2本を4連3本に組み替え。
⑦ 350系(352F)の組成に当たっては、2両の中間車を先頭車に改造。
⑧ 日光線の連続急勾配に対応するため抑速ブレーキを装備。
6連のまま改造した編成は、それほど大規模な改造は必要なかったのですが、4連化された編成はかなり大規模なものとなりました。特に352Fの先頭車は2両ともT車に運転台を取り付けて先頭車化改造を施したもので、かつそのうち1両は客用扉の位置を合わせるため車両の向きを反転させています。
しかし素朴な疑問として、そこまで手をかけた改造を施すくらいなら、どこにも転用されずに廃車になった1814Fの先頭車を転用すればよかったのではないかと思いますが、そうしなかったのは何か理由があるのでしょうか。あるいは、当時構想があった東上線への転用計画とも絡んでいたのかもしれません。
ともあれ、300系6連2本と350系4連3本が平成4(1992)年9月までに順次竣工し、急行列車として活躍することになります。
実際には、「快速急行」の急行への格上げは、これに先立つ平成3(1991)年7月21日のダイヤ改正から行われました。このダイヤ改正で「きりふり」(東武日光方面)・「ゆのさと」(鬼怒川方面)・「しもつけ」(東武宇都宮方面)・「南会津」(野岩・会津鉄道方面)の4系統の急行が華々しく登場し、100系「スペーシア」に伍して活躍を始めます。
これらのうち、宇都宮線及び野岩・会津鉄道線内のホーム有効長から、「しもつけ」「南会津」には専ら4連の350系が用いられ、特に「南会津」は浅草-会津田島間190.7kmのロングランを誇る列車として、鉄道趣味界からも注目されました。
なお、この改正に伴い、昭和44(1969)年1800系に伊勢崎線急行運用を譲って団体・臨時用に転じた5700系が、その40年の生涯を終えています。伊勢崎線急行運用を降りて22年、5700系の退役は、あたかも200系の就役を見届けたかのようで、そこに何かドラマチックなものを感じるのは管理人だけでしょうか。
しかし300系列の活躍も、長くは続きませんでした。バブル崩壊とその後の長期の日本経済の低迷により、日光・鬼怒川への観光客の入れ込みも減少、それによる有料優等列車の乗車率の落ち込みが顕著になりました。そこで東武は平成11(1999)年、「きりふり」「ゆのさと」を毎日運転から土休日のみの運転に変更、「南会津」の午後の下り便廃止など、縮小傾向に舵を切ります。
残念ながらその後も縮小傾向は止まらず、その2年後の平成13(2001)年3月には「きりふり」「ゆのさと」の不定期列車化、「南会津」の1往復化がなされます。しかし、「南会津」は「会津マウントエクスプレス」の運転開始に伴い、平成17(2005)年3月に廃止されてしまいます。「南会津」廃止以後、野岩・会津方面への有料優等列車は、12年後の「リバティ会津」登場まで見られなくなりました。
平成18(2006)年3月には、列車種別も含めた運転系統の刷新がなされ、このとき300系列使用の急行は特急に改められますが、改められたのは種別だけで、料金は急行時代のものが踏襲されましたから(種別は同じ特急でも、スペーシア使用列車とは明確な料金格差がつけられた)、利用者にとっては何も変わらない状態でした。
その後、6連の300系は、通勤ライナーとしての性格が濃厚な浅草-南栗橋間の「きりふり」などに活路を見出しますが、「リバティ」こと500系がデビューし「スカイツリーライナー」が登場した平成29(2017)年4月のダイヤ改正で南栗橋行きの「きりふり」が廃止され、これによって300系の定期運用が消滅し、同系は2編成とも退役しました。
現在は350系のみが残り、1往復の「しもつけ」と土休日の「きりふり」に運用されていますが、かつて300系列の独擅場だった「尾瀬夜行」「スノーパル」などの夜行列車は、500系に置き換えられました。350系も、それほど先が長くないのではと思われます。
2 通勤車に改造(群馬地区ローカル列車用)
3 幻に終わった東上線への転用計画
2及び3に関しては、次回に取り上げることにいたします。
-その8に続く-
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4864.特急りょうもう物語 その7 1800系の転身①~日光線急行用へ
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