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5052.リアル目蒲線物語 その2 ライバル…にはなり得なかった「池上電気鉄道」

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その1(№5049.)から続く

周知のとおり、系統分割前の「目蒲線」は、その名のとおり目黒-蒲田間の路線ですが、目蒲がこの路線を開業させる以前に、この区間の路線の建設を目論んだ事業者がありました。
それは「池上電気鉄道」です。

池上電気鉄道(池上)は、明治45(1912)年、目黒-池上-大森間の鉄道路線の免許申請を行い、2年後に認可されましたが、資金調達が難航し、着工はおろか会社の設立すら覚束ない有様。それでもようやく大正6(1917)年に会社設立にこぎつけ、大森側から線路の敷設を計画しました。
その後、池上は、高柳淳之介という、今で言う投資ファンド事業を行う実業家の支援を得て、とりあえず支線となる池上-蒲田間の敷設を目論み、大正11(1922)年に同区間を開業させます。
しかし、この高柳淳之介という人物、実業家とは名ばかりの「とんだ一杯食わせ物」だったようで、会社設立や路線建設の名目で全国の投資家から集めた資金を、事業ではなく自らの懐に流し込み続けました。しかも蒲田-池上間の暫定開業にあたっては、駿遠電気(現在の静岡鉄道の前身)から中古電車を2両譲り受けたものの、その譲受価格が新車のそれだったという、世にも杜撰な会計処理もありました(理論的には特別背任に該当する可能性がある)。
このような高柳の、私利私欲を優先する「銭ゲバ体質」の結果として、池上は終始資金不足にあえぎ、路線の建設も都心側の目黒からの建設ではなく、郊外側の蒲田からの建設になったとされています。高柳の振る舞いは、時代背景とスケールの違いこそあれ、どこかの自動車会社を思わせる話ではありますが。
ちなみに池上の蒲田駅と目蒲の蒲田駅は、開業当初はその位置が異なっていました。池上の蒲田駅は現在の蒲田駅と大差ない場所にありますが、目蒲の蒲田駅は当初、国有鉄道(当時)の蒲田駅と並行する形で設けられました。これは池上の蒲田駅が後から開業したため、目蒲の方が有利な場所を押さえていたためです。そのため、矢口渡-蒲田駅間の路線ルートも現在とは微妙に異なり、現在よりも南側にずれていて、そのルート上に本門寺道(→道塚)駅がありました。道塚駅は駅周辺が空襲に遭ったこと、応急的に復旧された際に池上線と並行するルートに改められたことなどの理由で、昭和21(1946)年に廃駅となっています。旧路線の跡は道路(環状八号線)などに転用され、跡形もなくなっています。

高柳のなりふり構わぬ「銭ゲバ体質」は、やがて世間に知られるところとなり、囂々たる非難を受けた高柳は、池上の経営から手を引きます(その後逮捕され、実刑判決を受けて服役している)。そうこうしている間に、目蒲が目黒-蒲田間の路線を開業させてしまったため、池上電気鉄道は、やむなく都心側のターミナルを目黒から五反田へ移します。
昭和3(1928)年6月、池上の路線は五反田に達し、現在の池上線の五反田-蒲田間が全通します。これによって乗客は増えましたが、今度は建設費の償還が重くのしかかることになりました。勿論池上も拱手傍観しているわけはなく、より都心に近い白金・青山方面への延伸を意図していました。五反田駅の高架橋が、山手線を乗り越す非常に高い構造になっているのは、この構想があったためです。
しかし、全線開業こそ果たしたものの、その数キロ先には目蒲線が並行しているため(地図をご覧いただくと、池上線と目黒線・東急多摩川線がそれほど離れていないことがお分かりいただけると思います)、池上は駅勢圏を目蒲に押さえられる格好となり、沿線の開発その他乗客誘致策も思うに任せませんでした。当初計画されていた池上-大森間の新線建設も、東京市から「道路の幅員が狭いので軌道の敷設はできない」という理由で建設を拒否されるといった経緯があり(池上はこの区間、現在の池上通りに併用軌道を敷設する計画だった)、いつの間にか消えてしまいました。
目蒲に駅勢圏を押さえられ、大森までの路線建設もかなわない。池上は「八方塞がり」の状態に陥ります。
そこで池上が起死回生の策に打って出たのが、雪ヶ谷(現在の雪が谷大塚とは場所が異なり、五反田寄りにある)と国分寺を結ぶ、長大な新路線の計画です。昭和初期のこの辺りは、現在ほど住宅は多くなく、田畑が広がっていましたから、路線を敷設すること自体はそれほど困難ではなかったように見えます。しかし、今にして思うと、需要もルートの必然性も見られない、いかにも場当たり的と言わざるを得ない路線でした。それでも、池上はその路線の第一期開業区間として、昭和3(1928)年に雪ヶ谷と新奥沢(現奥沢駅から南側)の間「新奥沢線」として開業させます。
ところが、期待された奥沢駅での目蒲との連絡はかなわず、新奥沢駅は独立駅としての開業を余儀なくされました。そのため、新奥沢線はどこにも接続しない「盲腸線」となってしまいます。そのような路線の乗客が増えるわけもなく、新奥沢線は開業間もなく、赤字ローカル線と化してしまいます。国分寺延伸を目論んで複線規格で完成した路線は、開業後ほどなくして単線に変更されました。
その先への延伸は…と期待されましたが、奥沢にも接続できなければ田園調布にも延伸できず、新奥沢線は目蒲と東横に頭を押さえられた格好になりました。そして目蒲は、何と国分寺延伸の計画路線にほぼ並行する形で、現在の大井町線の自由が丘-二子玉川間を開業させてしまいます。大井町線の開業によって、新奥沢線の延伸は完全に目蒲に封じ込められてしまい、池上の国分寺延伸という起死回生の策は潰えてしまいました。この区間の開業が、新奥沢線開業の翌年ですから、目蒲がいかに池上の勢力拡大を警戒していたか、そのことがよくわかります。

その後、昭和9(1934)年、会社としての池上自体も目蒲に吸収合併され(敵対的買収)、路線も「目蒲の池上線」となります。そして存在意義を失った新奥沢線は、もはや用無しとばかりに合併の翌年、昭和10(1935)年11月1日で廃止されています。
このあたりの推移は、当時の目蒲のトップだった五島慶太が絵図を描いていたことは、想像に難くありません。五島は「目障りな他人(他社)は征服して同族として取り込む」という、征服・取り込みの論理で行動していました。当初敵対的関係にあった池上を徹底的に妨害し、戦意喪失したのを見計らって敵対的買収を仕掛けて取り込む。五島は他でもそのような行動をとっており、「メトロ戦争」と言われた東京地下鉄道の敵対的買収はあまりにも有名ですが、その前には玉川電気軌道(玉電)の敵対的買収もありました。これは、東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線の一部)が渋谷をターミナルとすることを計画していたところ、玉電ビル(東急百貨店西館)を所有していた玉電がこの計画に強硬に反対したため、五島は玉電を強引に東京横浜電鉄に吸収合併しています。

次回は大井町線開業と池上の蹉跌…と予告していましたが、今回の記事でそこまで言及してしまいましたので、1回減らして次回は「戦後の目蒲線」とし、蒲田駅の位置の変遷や戦災復旧車の活躍などを取り上げます。

-その3に続く-

 

※ 当記事は01/21付の投稿とします。


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