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5063.リアル目蒲線物語 その4 目蒲線を走ったステンレスカー列伝

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その3(№5057.)から続く

今回は「目蒲線で運用されたステンレスカー列伝」と参ります。
目蒲線に初めて新造投入されたステンレスカーは、7200系の7260Fだったことは前回触れたとおりですが(この編成は目蒲線初の冷房車でもあった)、実はそれ以前にもステンレスカーが運用されたことがあります。

東急にステンレスカーが初めて投入されたのは昭和33(1958)年ですが、それ以後東急が投入する新車は、7200系のアルミ試作車2両を除き、全てステンレスカーとなりました。しかし、昭和40年代に至るまで、投入されたのは東横線と、田園都市線と名を改めた元大井町線だけであり、目蒲線や池上線は吊り掛け駆動の初代3000系列が運用されていました。
それが昭和42(1967)年から、目黒-田園調布間の区間列車の一部が、田園都市線と共通の4連で運用されることになり、その4連にステンレスカーが充当される事例が増えました。当時の田園都市線の4連といえば、5200系や7000系(初代・以下同じ)、それと当時の最新鋭であった7200系がありましたが、後に6000系(同前)も加わりました。これらステンレスカーが、都心寄りの半分だけとはいえ、目蒲線を走るようになりました。5200系は昭和60(1985)年、7000系は平成元(1989)年に、それぞれ正式に目蒲線に配属になっていますから、それ以前に両系が目蒲線で営業運転をした実績となります。他方で、6000系は目蒲線に正式配属されたことはありませんので、同系が田園調布-蒲田間に顔を出したことは、少なくとも営業運転では一度もありません(もしかしたら試運転などではあったかもしれないが)。
当然のことながら、目蒲線の目黒-田園調布間では、4連の運転に対応するようにホームの延伸が行われていますし、当時の目蒲線の車両基地であった奥沢でも、これら田園都市線用の4連が休む姿が見られるようになっています。
したがって、7260Fは「目蒲線に初めて新造投入されたステンレスカー」であること、「目蒲線初の冷房車」であることはいずれも事実なのですが、「目蒲線初のステンレスカー」であることは、事実と異なります。
このような運用は、都心寄りの区間で輸送力を増強し、予備車・予備編成を共通化するという目論見があったと思われますが、7年後の昭和49(1974)年から見られなくなっています。理由は不明ですが、この年に田園都市線に8000系が新造投入されたことが関係しているのではないかと思われます。当時の目蒲線の車両限界では、田園調布-大岡山間以外では20m級の大型車の運転ができなかったはずで(この区間は、東横線用の元住吉所属車両が長津田車両工場への回送のために通過する)、他方で当時の田園都市線では、4連とはいえ戦前型のデハ3450から「青ガエル」5000系、7000系など様々な系列があり、しかもそれらの運用が完全に共通化されていたので、8000系にだけ限定をかけるわけにはいかなかったのではないか。このことが、田園都市線用編成の使用を止めた理由と思われます。
ちなみに、田園都市線では、この2年後に1両増結した5連の運転を開始していますから、ことによるとその準備も視野に入れていた(5連化されれば目蒲線での使用ができなくなる)ということもあって、これも運用を完全に分離した理由かもしれません。

その後の目蒲線では、7260F以外は3000系列の吊り掛け車という布陣が長く続きますが、それに楔を打ち込んだのが、昭和56(1981)年の「青ガエル」5000系の投入。この年から、本格的にデハ3450の退役が始まっています。そして前回触れたように、戦災復旧車の3600系もこの翌年に退役し、いよいよ吊り掛け車も肩身が狭くなっていきます。それでも、冷房車は依然として7260Fの1編成のみであり、冷房化率は東横線や田園都市線・新玉川線に比べれば低いままでした。もっとも、当時の東急の冷房化率は非常に低く、東横線や田園都市線・新玉川線にすら「偽冷房車」がいたくらいで、例年ブービーか下から3番目くらいが定位置でしたから、あまり威張れたものでもありません。
そして昭和60(1985)年、遂に7200系が3連化されて目蒲線に投入されるようになりました。これは田園都市線改め大井町線からトレードされてきた車両ですが、同時に冷房改造も施されたため、目蒲線の冷房化率が一気に改善されることになりました。
なお、この年には「湯たんぽ」こと日本最初のステンレスカー・5200系も3連化されて大井町線から目蒲線にトレードされてきましたが、目蒲線に正式配属された期間は極めて短く、その翌年の昭和61(1986)年には早くも退役、上田交通(現上田電鉄)に移籍しています。この年には「青ガエル」5000系も目蒲線の3連を最後に退役、東急の路線上からあの丸っこい顔が消えました。
7200系に話を戻しますが、編成は2M1Tとされたため、Tc車が余剰となりました。そこで、余剰となったTc車について冷房化と電装を実施、7600系となっています。電装は7200系の抵抗制御ではなくVVVFインバーター制御方式とされ、足回りが一新されています。これにより、旧型車の退役が進められました。

目蒲線の車両がステンレスカーに統一されたのは、平成元(1989)年の3月19日。この前日を期して、旧3000系列の吊り掛け車は全て退役し、池上線も含めて全て7000系以降の車両に置き換えられ、これによって目蒲線のみならず、東急の鉄道線の車両は全てステンレスカーとなっています。同時に鉄道線から吊り掛け車が完全に放逐されました。
このとき、池上線は地上設備の関係から3連のままとされましたが、目蒲線は1両増結した4連と編成が増強されました。4連化に伴い、7000系のみならず、7000系をVVVFインバーター制御に改造・冷房化した7700系が転入、7200系も4連化されて活躍をつづけました。7000系は東横線で日比谷線直通用に活躍していたのが1000系に置き換えられて捻出されたもの、7700系は改造落成後大井町線で6連を組み暫定的に使用されていたものを目蒲線にトレードしたものです。なお、7600系は3連のままとされたため、目蒲線の4連化を機に池上線へ転出しています。
「目蒲線を走ったステンレスカー列伝」で外せないのは、何と言っても1000系でしょう。平成元(1989)年に登場した「1000N系」と称される1010F+1011Fは、8連でありながら中央貫通路を設け、併結して日比谷線直通運用に充当できるようにした編成でした。2年後にはもう1本(1012F+1013F)登場していますが、これらの編成は言うまでもなく、東横線の日比谷線直通と目蒲線とで予備車を共通化するために登場したものです。時折、中間に組み込まれる中央貫通路の先頭車が、幌を装着したまま目蒲線の運用に入る姿も見られました。
その後、平成3(1991)年には「1000N’系」といわれる1014F以降の編成が登場しますが、これらの編成は1000N系とは異なり、日比谷線直通運用への充当は考慮されていない完全な地上線専用車で、しかも3連化を前提に車号を与えられていました。これらの編成は、平成5(1993)年に新造車両を加えて3連化され、池上線へ転出しています。その穴埋めには池上線から7200系が戻り、7200系と1000N’系が両路線間で交換トレードが行われた結果になっています。
なお、平成3(1991)年には7000系が全て退役し、目蒲線の完全冷房化が達成されています。これは7260Fの投入から20年目のことでした。

この体制で、平成12(2000)年の系統分割を迎えることになりますが、次回と次々回は、目蒲線の事実上の延伸計画ともいうべき、都心直通計画と港北ニュータウン直通計画を取り上げます。目蒲線の都心直通計画は、同線を東横線・田園都市線(新玉川線含む)に続く「第三の幹線」に生まれ変わらせ、かつ既存の二大幹線の混雑緩和のための活用策という面もありました。

-その5に続く-
 


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